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大大阪時代

大阪市の人口が日本一だった時代 From Wikipedia, the free encyclopedia

大大阪時代(だいおおさかじだい)は、概ね1920年代初頭頃から1930年代前半頃(期間は諸説あり)にかけて、大阪府大阪市が「大大阪」と呼ばれていた時代のことである。

年代 大正 - 昭和初期[1]
概要 大大阪時代(だいおおさかじだい), 国 ...
大大阪時代(だいおおさかじだい)
歴史的時期
国 日本の旗 日本
都道府県
自治体
年代 大正 - 昭和初期[1]
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当時の大阪市は、大阪を建設した母都市で独自に近代化を遂げていた平野郷町や、人口増加と都市化の著しかった天王寺村・玉出町などをはじめとして、周辺郡部(東成郡および西成郡の全町村)を市域へ一括編入した。これに伴い、大阪市は人口・面積・工業出荷額において国内第1位となり、当時の東京府東京市を凌ぐ世界有数の大都市へと成長した[2]。

変遷

大大阪の始まり

第6代大阪市長池上四郎
第7代大阪市長關一

18世紀後半には、大坂は当時の首都であった京都を人口で上回っていたが、その後も人口は徐々に増加して行った。また、19世紀後半には大久保利通と五代友厚による大阪への遷都(現在で言う首都機能移転)案も出るなどして、大大阪時代が後述する大正時代よりも早く到来する可能性もあったものの、大阪遷都案は東京への奠都を決定したこともあり、幻に終わった。

明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分などの影響により、大きな打撃を受けた大阪市であったが、時代とともに発展を遂げていった。20世紀に入ると日露戦争や第一次世界大戦により必然的に軍需が高まる。国のため、国民の生活水準の向上を受け、重工業の生産額が飛躍的に増加し、その工業の隆盛ぶりから大阪市は「煙の都」「東洋のマンチェスター」と称されるようになった[3]。

郡部一括編入と「都市計画の範」大大阪

1923年(大正12年)9月1日に関東地方で関東大震災が発生し、当時の東京府東京市をはじめとする関東地方近郊に在住していた被災者の一部が、新たな居住地を求めて大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市、京都市などの主要都市に転居してきたことによる急激な人口の増加や、1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、大阪市は西成郡・東成郡の44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、人口211万人となり、東京府東京市を上回る日本一の大都市にまで登りつめ、幻となった大阪遷都案から約60年後に大阪市は奠都を凌ぐ都市となった。一方で、同年9月12日に、大正天皇は詔書を布告し[4]、関東大震災を機に、一部より提案された大阪への遷都(又は奠都)を明確に否定した。

大大阪時代の始まった頃は、日本最大の都市であったのみならず、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市であった[注 1][5]。東・南・西・北の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、商業・紡績・鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。当時のメインストリートは御堂筋ではなく、北浜の金融街に連なる堺筋に百貨店がひしめいた。加えて、1924年の甲子園球場誕生による野球ブームは現代につながるスポーツ用品メーカーの育成を促したとも評されている[6]。

大大阪時代の象徴的な出来事としては、池上四郎第6代市長が1913年に就任し、その2年後の1915年に大阪市天王寺動物園が開園。1919年、日本初の児童相談所・公共託児所を大阪市に開設。1910年代はまだ大大阪時代ではなかったものの、これらの政策の実施は、大阪市が発展する要因となり、池上市政後期の1920年頃に大大阪時代を迎えることとなった。1923年に都市計画学者でもあった関一第7代市長に交代してからも、1930年に大坂城天守の再建工事着工、御堂筋の大拡幅(拡幅計画は1919年の池上市政時代に発表済であったが拡幅の完成は関市政時代に入った1937年)、日本初の市立大学大阪商科大学(現・大阪公立大学)の設立および大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)御堂筋線の建設などがある。こうして、大大阪時代は、池上四郎・関一両市長の下、1920年代にピークを迎え「これやこの 都市計画の権威者は 知るも知らぬも大阪の関」と詠まれたり、内務大臣後藤新平から「都市計画の範を大阪に求める」と評されるなどした[7][8]。

被編入地域の移り変わり

このように大阪都心は発展を遂げ、天王寺・阿倍野(旧天王寺村)や玉出(旧玉出町)といった周辺郡部の市街化・都市化も急速に進行していった一方、あびこ(旧依羅村)などの純農村的な地域も大阪市の一部に内包されることとなり、また他方では旧来の都心が相対的に地位を低下させることもあった。

都市平野の編入

大大阪時代に住吉区の一部として編入された平野(旧平野郷町)は、戦国時代には堺と並ぶ環濠自治都市となり、安土桃山時代に平野商人の末吉吉康や南北平野町など大坂の建設に参与し、江戸時代になっても、天下の台所であった大坂とは別に商都(綿の都)として発展した歴史を有する。また、明治時代になっても平野銀行や平野紡績が設立され、近代工業都市として成長した都市で、大阪南郊の都心でもあった。特に平野紡績は大阪紡績と同様に1万錘規模の工場を建設し、のちに大日本紡績(現・ユニチカ)社長となる菊池恭三を支配人に抜擢するなど、明治当時の大阪都市圏において代表的な紡績企業であった[9]。

しかし堀に囲繞された高密な平野市街は近世以来すでに都市化が完了しており、明治から大正にかけての人口増加も、他の町村に比べてかなり割合低いものとなっていた。1925年(大正14年)に編纂された『南大阪編入記念誌』でも、「古くより人家密集して一の邑地をなし 風に發達して市街をなし街巷四通し 附近農産地の中心地にして 殊に南海平野線の開通以來交通の便を増す」としつつも「割に人口の増殖を見ること少なく 明治九年に既に人口七千を有したれども 今尚ほ一萬六千を有するに過ぎず」と言及されている。この言及にもあるように、大阪 - 平野間を結ぶ都市間電鉄である南海平野線の開業により[10]両都市間アクセスの利便性は向上し、駅前繁華街や私設市場群も形成されたが、それとは裏腹に大阪へのストロー現象も併発した。また大阪無線電信局が平野郷町に設けられたこともあり、それまで平野の後背地であった平野近郊の諸村(喜連村など)を含めて、対阪関係がより濃厚になっていた[11]。これらを背景として編入機運が醸成されていき、大阪市編入後の平野でも、あくまで大阪を中心とした都市計画が採られていくこととなる。なお平野郷町は、運河開削・区役所設置・市電敷設[12]などを条件として編入に同意したが、これらは後年の東住吉区および平野区の設置(1943年・1974年)を除いて、いずれも実現しなかった。

大大阪の終焉

ところが、大阪市の転機は1930年代前半に早くも訪れてしまい、1932年(昭和7年)10月1日、大阪市は分区によって区の数で東京市に並ぶ15区へ増加したが、同日、東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加し、いわゆる大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生し人口日本第一位の座を奪還する。1934年には室戸台風によって大阪市は未曽有の風水害に見舞われた。さらに繁栄の裏で同時進行にあった第一次世界大戦後の恐慌や昭和恐慌では、繊維や金属産業が大打撃を受けてしまう。さらに、戦争への時代へと向かう中、統制経済等の政策により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行った。

とはいえ、当時の大阪は、東京に次ぐ日本第2の都市であり、戦後復興と高度経済成長期にも西日本の中心都市としての繁栄はなお続いていた。

しかし、大阪の東京に対する相対的地位の低下は、東京一極集中とともに1960年代後半より始まり、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開催の前後より顕著となった。それが決定的となったのは、1973年の第一次オイルショックによる、高度経済成長期の終焉後、安定成長期以降のことである。1974年以降京阪神大都市圏の人口は転出超過になり、1978年には大阪市の人口が東京都市圏の神奈川県横浜市に追い抜かれ、本格的な東京一極集中時代が幕を開ける。ただし、人口統計上の第二都市は横浜市になってはいるが、最低賃金など一部を除く財政の規模や経済生産の総額は大阪市の方が大きく、横浜市が自らを中心地とする都市圏を形成せず、東京を中心とする東京大都市圏に含まれるのに対して、大阪市は自らを中心地とする大都市圏を形成していることから、2026年時点でも、日本では一般的には大阪市が第二都市として分類されている。また、世界的に見れば、大阪は世界有数の大都市(世界都市)であることには変わりない。

なお、大大阪時代当時の大阪市長であった池上と関は、両者とも、その実現を筆頭に大阪市政への功績が評価され、それぞれの銅像が建立された。銅像は、池上のものは天王寺公園内、関のものは大阪市立東洋陶磁美術館前にそれぞれ設置されている。

画家の小出楢重は当時の大阪の風景を以下のように描いている。

…⼤阪は驚くべく黒く低い屋根の海である。その最も近代らしい顔つきは漸く北と西とにそれらしい一群が聳えている、特に西方の煙突と煙だけは素晴らしさを持っている。しかし、東南を望めば、天王寺、茶臼山、高津の宮、下寺町の寺々に至るまで、坦々たる徳川時代の家並である。あの黒い小さな屋根の下で愛して頂戴ねと女給たちが歌っているのかと思うと不思議なくらいの名所図会的情景である。ただ遠い森の中にJOBKの鉄柱が漸く近代を示す燈台であるかの如く聳えている。
 大阪の近代的な都市風景としては、私は大正橋や野田附近の工場地帯も面白く思うが、中央電信局中之島公園一帯は先ず優秀だといっていい。
—小出楢重『めでたき風景《上方近代雑景》』

大大阪時代前後の建造物等

脚注

関連項目

外部リンク

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