鶴橋商店街

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鶴橋商店街(つるはししょうてんがい)とは、大阪府大阪市生野区鶴橋駅周辺に広がる商店街である。戦後に駅周辺に形成された闇市の跡地に成立した商店街で、天王寺区生野区東成区の3区にまたがっている。付近の生野コリアタウンと混同されがちであるが、後者は戦前から存在した商店街で、戦後の闇市から出発した鶴橋商店街とは成り立ちから異なっている。

主なマーケットのおおまかな位置関係
丸小鶴橋市場商店街
東小橋南商店街
鶴橋西商店街
鶴橋商店街
鶴橋高麗市場
大阪鶴橋卸売市場(鶴橋鮮魚市場)

鶴橋駅前の商店街は、鶴橋西商店街、鶴橋商店街振興組合、大阪鶴橋市場商店街振興組合、大阪鶴橋卸売協同組合、東小橋南商店街振興組合、鶴橋高麗市場の6つの商店会から成り立っている[1]

2015年時点で、商店街に属さない店舗を含めて約800店舗が営業している[2]

駅西側に広がる鶴橋西商店街は、もともとは衣料品や靴の販売店が中心であったが、現在は焼肉店や居酒屋が集中するようになっている。

駅東側の鶴橋商店街(国際市場)はチョゴリやキムチなどの韓国の雑貨、食品を扱う店が多い。

大阪鶴橋市場商店街振興組合、大阪鶴橋卸売協同組合は魚などの生鮮食品を取り扱う。こちらは日本人が経営する店が多数を占める[3]

東小橋商店街は建物疎開から免れた一帯で戦前から残っている店も存在している[1]

これらの商店街は、新たにキムチ店や韓流グッズ店が開業するなど新規参入も見られる[1]

鶴橋高麗市場はトックなどの韓国の食材を売る店が集中しており、ほとんどを韓国朝鮮系の経営者で占める[4]。もともとこのあたりには在日韓国人の店が多くあったが、この商店会が作られたのは1993年(平成5年)で、かなり新しい商店会となっている[5]

商店街の特徴

韓国食品

鶴橋商店街振興組合、鶴橋西商店街、鶴橋高麗市場の商店主には韓国人が多く在籍しており、キムチやチヂミなどの韓国料理やチョゴリなどの民族衣装を取り扱う店が多数存在している[6]

戦前、近隣の猪飼野では、済州島から移ってきた韓国人が集まり韓国マーケットが形成されていた。戦後の1954年(昭和29年)ごろに猪飼野に住む太萬廉が鶴橋国際商店街でキムチを売り歩き始めた。数年後には商店街の一角の定位置でキムチを売るようになり、やまき商店を開業している。この周辺は鶴橋高麗市場となっている[5]

鶴橋高麗市場は、昭和30年代から在日コリアンによる商店が生まれ始めた。当初はゴム靴やメリヤス製品、寝具などの店が中心であった。また、朝鮮の儀礼であるチェサ韓国語版)に使用する食材を販売する食品店も出始めている。キムチの店は昭和40年代から増加し、他の業態の店も徐々にキムチ店へと業態転換を進めていった。以降、朝鮮食品店が鶴橋商店街に広がっていった[7]

チヂミは昭和40年代に入ってから売られるようになった。昭和46年ごろの金城商店が最も早くチヂミを販売した。その後、チヂミを販売する店が増えていき、キムチ店でもチヂミが並べられるようになった。なお、チヂミは本来は冠婚葬祭の際に食べられる料理であった[8]

チョゴリ

鶴橋の商店街を象徴する景観の一つとして、朝鮮の民族衣装であるチョゴリ(韓服)を扱う店舗の集積が挙げられる[9]

戦後の早い時期からチョゴリを販売する店は存在していたが、当時は在日コリアンの日常生活における普段着としての需要が主であったため、意匠は比較的簡素なものが中心であった。しかし、生活様式の変化に伴い、チョゴリの主な用途が婚礼や式典などの冠婚葬祭へと移行するにつれ、デザインはより華やかなものへと変化していった[9]

かつてチョゴリは、朝鮮半島への帰郷時における主要な土産品でもあった。1959年(昭和34年)に始まった北朝鮮への帰国事業や、1970年代に韓国で展開された農村近代化運動であるセマウル運動の時期には、里帰りの際の贈答用として活発に取引されたという[9]

かつて鶴橋で流通していたチョゴリは日本国内で製造されたものが主流であった。しかし、需要の減少に伴い国内の製造業者が減少した結果、現在では韓国からの輸入品が大半を占めるようになっている[9]

2022年時点において、鶴橋商店街でチョゴリを専門に扱う店舗は数店舗にまで減少している。この背景には、日本社会における婚姻形態の変化や価値観の多様化が挙げられる。日本人との通婚(国際結婚)の増加に伴い、式典に洋服で参列する事例が増えたことや、披露宴そのものが簡略化・省略される傾向が強まったことで、婚礼用チョゴリの需要が著しく低下した。こうした需要の変化に対応するため、現在存続している店舗は、チョゴリの販売だけでなく、韓国製の雑貨や布団などを併売することで、経営の多角化と存続を図っている[10]

焼肉店

鶴一

鶴橋で最も古くから営業する焼肉店に、「鶴一」がある。鶴一の創業者の米野照雄の父、新井辛鶴は、1942年(昭和17年)ごろに済州島から照雄と共に日本へ渡り、不動産業や養豚業を手掛けて、1948年に鶴橋に露店で蒸し豚屋を開業、1951年に鶴橋国際商店街の店を購入した[11]

息子の照雄は妻と共に鶴橋で屋台で串焼きをしていたが、1953年(昭和28年)ごろに現在の鶴一本店の場所に店を構えた。照雄の母の発案で七輪で焼くホルモン焼きを提供するようになった。1981年(昭和56年)には隣接する店舗を買い取り店を拡大、この頃からメディアに取り上げられるようになり行列店となった[12]

他の焼肉店の開業

鶴橋西商店街

鶴一が開業した当時、鶴橋西商店街に他の焼き肉屋は一軒もなかった。当時の商店街はゴム靴、革靴などの靴屋が多く並ぶ商店街であった。昭和30年代後半から昭和40年代になると鶴橋西商店街に焼肉店が少しずつ生まれるようになった。1974年(昭和49年)には四階建ての焼肉店「アジヨシ」が開業している。かつて軒を連ねた靴店はだんだんと姿を消し、現在の鶴橋西商店街は焼肉店に特化した商店街となっている[13]

戦前の鶴橋

闇市の形成

戦前の鶴橋駅周辺

戦前の鶴橋駅周辺は、民家や工場、寺院が点在するような静かな場所で、商店は数えるほどしかなかった。現在の鶴橋駅の300m東を南北に通る鶴橋本通りには商店が立ち並んで古くからの繁華街となっていた。大正3年にはこの鶴橋本通り沿いに近鉄鶴橋駅が開業、1932年(昭和七年)には国鉄城東線(大阪環状線)の国鉄鶴橋駅への接続のため、近鉄鶴橋駅は現在の位置へと移設された。近鉄鶴橋駅の高架下には「大軌市場」という小さな市場も作られた[14]

建物疎開

太平洋戦争末期、1944年2月から1945年6月にかけて東京や大阪などで、空襲による火災の拡大を防ぐため建物を取り壊して空き地とする建物疎開が行われた。この建物疎開は第一次から第五次の5回にわたって行われ、鶴橋駅周辺でも4度にわたって建物疎開が行われた。1944年2月の第一次疎開事業に指定された商店街東側を南北に通る道路は疎開道路とも呼ばれるようになった[15]。最も広範囲となったのは第五次疎開で、近鉄の路線を南北から挟むように西は鶴橋駅から東は平野川を越えて片江町までの建物が取り壊された[16]。現在の商店街の範囲は第二次疎開の近鉄鶴橋駅北側、第五次疎開の近鉄沿線の範囲とほぼ一致している[15]

闇市の形成

建物疎開が行われた鶴橋駅であったが、駅舎や線路は空襲の被害を受けることなく終戦を迎えた。戦後、鶴橋駅周辺に闇市が形成されるようになった。その要因として、建物疎開によって広大な空き地があったこと、鶴橋が国鉄城東線、近鉄奈良線大阪線が乗り入れる交通の要所であったことがあった[17]。各地に闇市が現れたのは1945年9月とされており、戦前から鶴橋に住む人物の証言によれば、8月30日の時点では鶴橋駅近辺は空き地のままであったという[18]

青空市場では自家製の団子汁やぜんざいが販売された[19]。このような商行為が行われていた範囲は広く、鶴橋本通り沿いの商店街の店前でも団子や蒸しパンを販売する者が並んでいたという。鶴橋の谷口計量器店の店主によれば、せめて出入り口は封鎖しないでほしいと追い出すようなことはしなかったと証言している[20]

初めのうちは、青空市場で素人が自前の食べ物を売っていたが、プロの露店商人が入ってくるとテントやトタンで「店舗」が作られるようになった。

警察による取り締まり

10月25日には、阿倍野や天六などの闇市と共に鶴橋の闇市で警察による取り締まりが行われ、押収された商品は学校や交番で安価で販売された。しかし、11月6日の朝日新聞には闇市が消えたのはわずか二日で、その翌日には再び闇市場が復活したと報じられている[21]

1946年(昭和21年)7月25日、米大阪軍政部の指令によって、鶴橋含む大阪各地の闇市は閉鎖されることとなった。各地の闇市は7月31日が最終日となり、その日は閉店セールでにぎわったという。8月1日午前0時をもって各闇市は立ち入り禁止となった。この規制はその日付から「八・一閉鎖令」と称されている[22]。この閉鎖後も食糧難は続いており、約一か月後には鶴橋に闇市が復活したことが報じられている。梅田や難波の闇市ではすべてのバラックが取り壊されていたが、鶴橋ではなぜか一部のバラックが残存していたことが復活の原因となったと考えられる。この三週間後には抜き打ちで大阪各地の闇市を閉鎖したとの報道があり、各地で闇市が再興していたことが読み取れる[23]

商店街の形成

建物疎開地の返却と大規模火災

1946年(昭和21年)3月31日に、建物疎開で大阪市所有となっていた土地が元の所有者へと返還されている。しかし、その土地はすでにバラックが建ち並ぶ闇市と化しており、このまま商売を続けると土地の不法占拠となってしまうこととなった。これが関連してか、4月から6月にかけて商人が土地の購入、あるいは賃貸を進め、3つの商店会が成立している。この頃から正式に店舗を構えて商売を行うものが出てきている[24]

1947年2月に大規模な火災が発生、約1500坪、150戸余りが被災した。特に被害が大きかったのは、前年の闇市閉鎖時に取り壊しを免れた残存バラックであった。火災後、商店街の店舗は1階が店舗、2階が住居に使えるものが再建された。被害を免れた商店もバラック同然の建物であったため、これを機に建て替えられた。再建された建物は現在もそのまま残っており、戦後の風景を現代に保存している[25][26]

水産物の卸売市場

いまだ物品の統制が続いていたため、鶴橋には各地の漁場から闇ブローカーによって水産品が集まっていた。各商店は正規の配給品の裏で統制品をむしろなどで覆って販売していた。1948年9月には水産品の闇取引の大規模な取り締まりが行われている[27]。この1948年ごろ、現在の大阪鶴橋鮮魚卸商組合の位置に木造の共同店舗が建築され、鮮魚店や干物店など40数店が入居、1950年5月に共同店舗の管理会社である「株式会社鶴橋卸売市場」が設立されている[28]。また、1958年には共同店舗を取り壊して新たな店舗に建て替えられている[29]

社会の復興に伴い物品統制が緩和されると、自由な商取引が再開された。鶴橋は奈良に近接する鮮魚の供給地であったことから、奈良県内からの買い出し人で賑わった。鮮魚の仕入れは大阪市中央卸売市場が中心であったが、産地から直送される「担ぎ」による鮮魚も、希少な品が入ることから鶴橋の名物となった。その盛況ぶりから、鶴橋から奈良・三重方面へ向かう列車の混雑が激化し、一般乗客からの苦情を受けるに至った。これを受け、1963年(昭和38年)からは行商専用の「鮮魚列車」の運行が開始された[30]。この鮮魚列車は2020年のダイヤ改正で消滅するまで継続した[31]

商店会の結成

鶴橋商店街振興組合(鶴橋国際商店街)

闇市の閉鎖後、闇市商人であった李煕健(平田義夫)が中心となって市場の再建を求めてGHQ、警察との交渉を行い、1947年7月に合法的なマーケットとして「国際商店街」が発足、鶴橋国際商店街連盟には約500店舗が加盟し李が初代会長に就任した[32]

鶴橋国際商店街は、かつて店舗を約300件建設し抽選で約1200名の商人を割り当てたという。店舗は一軒当たり6坪ほどでこの狭い区画を4人で分割して商いを行っていた。一人、また一人と抜けていき最後に残った一人だけがその店舗の営業権利を得ることができたという。詳細な時期は定かでないが、複数人の証言をまとめると1951年(昭和26年)頃であったと推定される[33]

昭和42年には商店会名を「鶴橋商店街振興組合」に変更、再開発を進めるために法人を設立している[34]

丸小鶴橋市場振興組合

1952年ごろ、亀山義孝が所有する土地に33店舗で構成される丸小市場会が結成、1971年(昭和46年)には丸小市場会と同時期に周囲に成立していた中央会、鶴新会、鶴橋中央会とひとつとなって丸小鶴橋市場振興組合を結成している[35]

アーケードの設置

昭和30年代に入ると全国的に商店街のアーケードが設置されるようになってきた。鶴橋商店街のアーケードは、1955年(昭和30年)4月に中央商店会、中央会、鶴新会(現在の丸小鶴橋市場商店街)に設置されたものを皮切りにその多くが昭和30年代前半に建設されたものである。生野区側のアーケードはそれより遅れた昭和40年前後に整備されていった[29]

最盛期

鶴橋に行けば何でもそろう

鶴橋には、闇市から出発したという経緯から公設の市場にある業種制限がなく、様々な商品が売られており、「鶴橋に行けば何でも揃う」というフレーズまで生まれた。1956年(昭和31年)の住宅地図には、食品はもちろん、繊維雑貨類など多種多様な商店が確認できる。他の私設市場である浪速区の木津卸売市場や北区の天満卸売市場は食品問屋街という性質が強く、食品と繊維雑貨が同時に揃うのは鶴橋の特徴であった[36]

問屋街としての鶴橋

かつての鶴橋における商店街の主な得意客には、まずよろずやが挙げられる。スーパーマーケットが普及していなかった時代、食料品から日用雑貨までを一括して仕入れることができる鶴橋は、総合スーパーに近い役割を担っていた小売店にとって極めて利便性の高い場所であった。これらに加え、鮮魚店や飲食店なども、食材の主要な仕入れ先として鶴橋を利用していた[37]

また、衣料品店が軒を連ねる鶴橋国際商店街や、靴店・紳士服店が集中していた鶴橋西商店街では、農山村部へ商品を売り歩く行商人が主な顧客であった。しかし、流通形態の変化とともに、これらの行商人は現在ではほとんど姿を消している[38]

鶴橋がこれら小規模な小売業者に重宝された理由としては、他の問屋街と比較して少量販売(小分け売り)に対応していた点が挙げられる。この特徴は業者のみならず、まとめ買いによって安価に商品を入手しようとする一般客にとっても大きな魅力となり、「安く買える商店街」としての側面も併せ持っていた[39]。近鉄線の高架下の区域は、戦後十数年間は空き地となっていたが、1957年(昭和32年)ごろから店舗が開設され始めた。この区域に集中しているキムチなどの韓国食材を販売する店もこの頃から出現している。このように鶴橋の商業地は徐々に広がり、迷宮のような構造となっていった。昭和30年代から40年代が最も店舗が集中した鶴橋商店街の最盛期であった[40]

衰退と幻の再開発計画

ライバルの出現

スーパーマーケット

昭和26年に大阪市内初のスーパーマーケットが開業、昭和40年代にはスーパーマーケットの躍進で零細小売店に影響を与え始めた。鶴橋において、まず影響が表れたのが衣料品店で、1967年(昭和42年)の新聞記事には、魚市場が盛況であるのに対して衣料品店一帯が寂しいことに驚いたことが記されている[41]。対して食品店はスーパーの影響をそこまで深刻に受け止めていなかった[41]

競業する卸売市場の開業

1964年(昭和39年)、3kmほど離れた東住吉区大阪市東部中央卸売市場(東部市場)が開場した。これに先立ち、開場の数年前から鶴橋の鮮魚店などに対して移転の打診が行われており、一部の鮮魚店や乾物店が東部市場への移転や支店の開設を実施した。『東部市場十年史』によれば、開場当時の業者のうち、約4分の1を鶴橋市場出身の業者が占めていたとされる。

昭和40年代に入り、東部市場の開場によって鶴橋は一部の得意客を失うこととなった。しかし、当時は高度経済成長期の只中にあったこともあり、商店街全体として深刻な打撃を被るまでには至らなかった[42]

しかし、昭和50年代に入ると、1977年(昭和52年)に奈良県大和郡山市奈良県中央卸売市場、1978年(昭和53年)に茨木市の大阪府中央卸売市場が開場、奈良県や大阪市北東地域、京都府の顧客を奪われることとなった。勢力を拡大するスーパーマーケットの影響もあり、鶴橋では卸売と小売の双方の顧客が目に見えて減少した[43]

幻の再開発計画

鶴橋商店街振興組合では、昭和30年代から再開発ビルの建設計画を推進していた。計画は昭和35年にいったん頓挫、昭和42年に再出発している。行政や建設コンサルタントとの交渉を経て、昭和45年には建設省の補助金交付が決定、翌年には大阪市都市再開発局が「鶴橋地区再開発基本計画」を発表している[44]

計画内容は、鶴橋商店街振興組合含む6つの商店街とその南に位置する鶴橋本通り商店街などを含めた広大な地域が対象となった。事業期間約20年、総事業費370億円をかけ、鶴橋商店街の位置に25階建ての駅前業務センタービル、その東に6階建ての商業ビルを3棟、南側には4階から7階建ての店舗付き住宅を15棟建設するというものであった[45]

この再開発計画は、最終的には一部の商店主らの強い反対により頓挫した。反対の主な要因は、店舗の立地条件による収益格差への懸念であった。当時の鶴橋では、人通りの激しい通りとそうでない通りで売上に明確な差が生じていた。そのため、再開発後のビル内で割り当てられる区画(フロアや位置)によっては、現状よりも売上が減少するのではないかという危惧が広がり、合意形成に至らなかった[46]

平成以降

強まる韓国色

鶴橋商店街のキムチ店

前述のように、昭和40年代あたりからキムチやチョゴリを販売する店が増え、鶴橋西商店街では焼肉店が増加した。昭和40年代の新聞記事にも韓国、朝鮮の民族色が強まったことが受け取れる記述がみられるようになった[47]

1988年(昭和63年)にはソウルオリンピックの開幕によって韓国ブームが起き、鶴橋は生野コリアタウンと共に日本の韓国としてメディアに取り上げられることが多くなった。藤田綾子は、現在鶴橋といえばキムチと焼肉のイメージが強いのはメディアの喧伝の影響が大きいと分析している[47]

衣料品が中心であった鶴橋商店街振興組合でも、昭和50年代より居酒屋やお好み焼き屋が進出、現在はキムチを販売する店が多く営まれるようになった[47]

様々な逆風

1995年に商店街から徒歩十分程度の場所に大型スーパーのライフ今里店が開業、鶴橋商店街含む近隣の商店街は多くの客を奪われることとなった。2001年の牛海綿状脳症の流行では焼肉店が大きな打撃を受けている[48]

ニューカマーの進出と偽ブランド品

鶴橋商店街に新たに店を出す店主には、ニューカマーの在日韓国人が多くを占める。業種はキムチなどの食品店を営む場合もあるが、大半が衣料品店である。しかし、偽ブランド品を販売する店も多く、何度も警察の摘発を受けている。偽ブランドを販売する店は2000年代から増加し、一時期は40店舗ほどまで膨れ上がったという。警察は幾度も摘発を続けているがいたちごっこ状態となっている[49]

鶴橋鮮魚市場の解体騒動

鶴橋鮮魚市場の建物は1958年(昭和33年)以降に建設されたものであるが、2009年(平成21年)には耐震基準を満たしていないことが判明。雨漏りや壁のひび割れなど老朽化が著しく、経営難に陥った運営会社側は建物の解体と会社清算を計画した。これに対し、営業継続を希望するテナント側が反発。2020年(令和2年)秋、会社側は立ち退きを拒む約20店舗を相手取り、建物の明け渡しを求めて大阪地方裁判所に提訴する事態となった[50]

2022年12月、当初の不動産売却案が株主総会で否決された後、別の不動産業者が約9億5,000万円で土地と建物を買収する新たな計画を提示した。この計画では、約3,000平方メートルの敷地のうち、南側の約300平方メートルに規模を縮小した上で市場を再建し、既存の9店舗が入居する方針が示された[50]

2023年(令和5年)2月、この新計画が株主総会で承認され、売買契約が成立。立ち退きを求めていた訴訟についても、テナント側への和解金の支払いをもって終結する見通しとなった。これにより、2年以上に及んだ法廷闘争は、市場の一部存続という形で決着を見た[50]

商店街の現状

脚注

参考文献

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