生駒藤之
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幕臣であった父藤三郎と母えいの長男として、武蔵国豊島郡旧江戸大久保上ヶ地に生まれる。1855年(安政2年)から昌平坂学問所で漢学を8年、講武所で砲術を2年、海軍所で船具運用と算術を1年、開成所で英語を1年それぞれ修める。また、尾張藩出身の儒学者佐藤牧山ならびに徳山藩出身の庄原文助に漢学を師事し、旧幕臣の長坂真五郎に槍術と剣術を師事する。禁門の変や第一次長州征伐に、幕府の直臣として参戦した。1865年(慶応元年)、経書漢文と歴史漢文の文章試験に合格して、幕府から白銀7枚を下賜される[4][5]。
幕府が移封したのち、1869年(明治2年)に静岡藩が沼津兵学校附属小学校を開校すると、素読教授方として就任[6]。このとき兵学校寄宿寮の取締を兼務した。その後、同藩士族のための萬野小学校頭取に就任した。学制が公布されたことに伴い、交布翌年の1873年(明治6年)に新設された富士郡比奈富士岡連合小学校教員として招かれる。1904年(明治37年)に62歳で退職。漢文に秀でていた生駒は、吉原町と吉永村の二ヶ所に会場を設けて、経書の講読会を毎月1回行った[4]。
退職後は、吉永村役場の書記を務め、1912年(大正元年)に『吉永村史稿[7]』を記す。1919年(大正8年)10月18日に逝去、同月21日に神式での村葬が行われた[8]。
家族
エピソード
他所での仕事をたびたび勧誘されたが、生駒自身は吉永の地に骨を埋めると言ってすべて断ったという。穆清舎の教え子たちの証言によれば、生駒は背が高い方ではなく、髪の毛は後ろに長く垂らしていた。服装は和装で袴を履いていることが多く、夏も冬も足袋と羽織を着用していた[10]。
1891年(明治24年)5月11日、ロシア皇太子ニコライ2世が津田三蔵巡査に切りつけられるという事件(大津事件)が起こった。この事件の数日後、生駒はニコライ2世に対して、同じ日本人としての謝罪と見舞、回復祈願の電報を打っている[11]。
生駒が退職したときの月給は24円であった。退職後は恩給によって生活していたが、あまり裕福とは言えず、地元住民たちによって義援金の募集が呼びかけられた。結果、300余円の生活基金が生駒に送られた[12]。
葬儀の翌日に、生駒の蔵書が吉永村立穆清尋常高等小学校(穆清舎より改称)に寄贈された。その内容は辞書類が2部(42冊)、経書類が14部(34冊)、歴史書15部(92冊)、詩類10部(32冊)、文書文法17部(42冊)、書類3部(18冊)、雑類9部(12冊)の合計70部(262冊)である。これらは、現在でも富士市立吉永第一小学校の校長室に「生駒文庫」として保管されている。なお、文庫の付属品として、士族出身であった生駒の日本刀一本が収められている[13]。