田中好
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京都府船井郡園部町(現・南丹市)生まれ。京都府士族・田中勝次の長男[4]。幼くして父を失う[3]。1910年、立命館大学専門部法律科卒業[3]。京都府庁、兵庫県庁、内務省等に勤務した[4]。その後、臨時震災救護事務局事務官兼鉄道省事務官をつとめた[3]。一貫して道路・交通・治水行政に従事した。
1936年には第19回衆議院議員総選挙に立憲政友会より立候補し初当選。その後も公職追放[5]の期間を挟んで戦前2回(京都府第2区)、戦後1回(京都2区)、計4期に渡り国政に携わるなど活躍。とりわけ1953年の第26回衆議院議員総選挙では、当時園部町議会議員兼議員秘書だった野中広務の奔走もあって芦田均(元首相)、前尾繁三郎(のち衆議院議長)らを抑えトップ当選を果たしている。衆議院商工厚生常任委員長、厚生委員会委員長などを歴任。党内では旧自由党系として吉田派→岸派に属した。また、難所とされた国道9号老ノ坂峠の整備などにも尽力した。
1956年5月14日、死去。69歳没。翌15日、特旨を以て位一級を追陞され、死没日付で正五位勲四等から従四位勲三等に叙され、瑞宝章を追贈された[6]。
1964年5月14日、その功績を讃える「頌徳碑」が観音峠隧道南側に建立されたが、その後、園部城跡近くの小向山の山頂に移設された。碑は岸信介(元首相)が揮毫。「頌徳碑建設委員会 農林大臣 赤城宗徳」の名前で、碑文が刻まれている。
