昭和21年(1946年)12月、上海連絡班に所属していた田中は「濱口幹子」と名乗る女性が娘を連れて上海市内の旧松井公館に拘束されていることを「岡田某」[2]から聞く。調べてみると実は満州国皇弟・溥傑夫人の嵯峨浩であることがわかった[3]。彼女を放っておけば川島芳子のように戦犯として処刑されると田中は判断し、自分独りで救出することを決心する。
12月27日、単身自動車を駆って旧松井公館に行き、警備の厳重な表と違って手薄である裏手のすすきばやしの中に停めた。そして建物に忍び込んで浩親子を導いて裏口から脱出させ、自動車に乗せる。旧松井公館を出る際に、気づいた警備の中国兵が発砲するが、自動車をフルスピードで運転してそこを逃れ、見事救出に成功する。
翌28日に上海発の最後の引揚船に乗って1月4日には佐世保にたどり着いて自身の召集が解除されたが、浩親子を横浜市日吉の嵯峨家まで送り届けた。