田中秀次郎
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経歴
旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属[4]。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した[4]。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において[4][注釈 2]、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた[4]。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる[4][3]。当時のあだ名は「デンチュー」であったという[4][3]。
1931年(昭和6年)、成蹊高校を卒業して東京帝国大学を受験するも失敗[6]。田中は、井上陽一(成蹊OB)、畑龍雄(武蔵高校OB)ら同様に浪人となったバスケットボールプレイヤーらとともに「籠人クラブ」というクラブチームを作って明治神宮競技大会に出場し、優勝した[6]。籠人クラブのメンバーは翌1932年(昭和7年)に東京帝国大学に合格し、バスケットボール部で活躍することとなった[6]。1934年には第10回極東選手権競技大会(マニラ)に出場した[1]。
東京帝国大学農学部を卒業後[2]、27歳で1936年ベルリンオリンピックの日本代表メンバーとして選ばれ[2]、主将を務めた[4]。この際の代表チームには、東京帝大生の中江孝男・鹿子木健日子も参加している[7][2]。