田中美一

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 1938年
没年月日 2012年2月23日(74歳没)
田中 美一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市
生年月日 1938年
没年月日 2012年2月23日(74歳没)
選手情報
ポジション 投手捕手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田中 美一(たなか よしかず、1938年 - 2012年2月23日)は、神奈川県横浜市出身のアマチュア野球審判員六大学野球都市対抗野球大会夏の甲子園などの大試合で球審を任され、「ミスター球審」と呼ばれた[1]

小学4年生の時から野球を始め、中学、神奈川県立希望ケ丘高等学校時代は投手だった[2]。高校時代は投手・4番で2年次と3年次に県ベスト4という活躍を見せる[3]

立教大学に進むも、1年から2年に上がる春のキャンプで他の選手の打球を右足首に受けて骨折[3]。その後は伸び悩み、リーグ戦で投げることはできなかった[2]日本通運浦和に就職後、捕手に転向[4]し、4年で社会人野球を辞めた後は横浜市にある実家の材木店を継いだ[2]

その後は野球を離れていたが、7年後の1970年に立教大学の先輩から、六大学野球の審判員に欠員が出たため[2]神宮球場で審判をしてほしいという誘いがあり受託する[3]。その後、高校野球や社会人野球でも審判を務めるようになる。

1988年、国際野球連盟の国際審判員の資格を取り、世界選手権などでも審判を務めた[2]。独学で英語スペイン語を習得する[2]

福岡ユニバーシアード第18回アジア野球選手権大会でチーフを務めて力量が高く評価されたことにより、1996年2月7日、国際野球連盟の1995年度最優秀審判(アンパイア・オブ・ザ・イヤー)に日本人で初めて選出された[5][6][7]

1996年7月19日から8月4日まで開かれたアトランタオリンピックでは、野球審判員として日本人でただ1人だけ選ばれた[2][3][4][8]。日本人で野球審判員に選ばれたのは、ソウルオリンピックバルセロナオリンピックに参加した布施勝久に続いて2人目である[9]

1999年から2000年には日本野球連盟規則・審判専門委員長を務めた[10]

2012年2月23日、心不全のため死去、74歳没[10][11][12]

人物

家業の材木店を続けながら、高校野球、東京六大学野球でそれぞれ20試合、社会人野球で30試合の審判を毎年務めた[3]。また年に2週間程度、海外で国際試合の審判を務めた[3]。シーズンオフには審判講習会の講師として全国を飛び回っていた[4]。そのため、休みは月に1度だったという[2]

温厚な人柄で、普段の口数は少ないが、他人の質問には丁寧に教えた[7]。他人を叱責することもなかった、という[7]

判定の抗議やトラブル時に観客はスコアボードで審判の名前を確認することから、「名前を覚えられない審判が良い審判」と語っている[4]

エピソード

ある大会のスペインイタリアの試合で、判定に抗議したイタリアの選手が打席に入らなかった。このとき田中はイタリアの選手に審判のマスクを渡してバットを取りあげ、「私が打席に入るから君が審判をしろ」と言い、スペイン応援団から喝采を浴びた[2]

主な審判試合

「奇跡のバックホーム」のジャッジ

脚注

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