田中美一
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小学4年生の時から野球を始め、中学、神奈川県立希望ケ丘高等学校時代は投手だった[2]。高校時代は投手・4番で2年次と3年次に県ベスト4という活躍を見せる[3]。
立教大学に進むも、1年から2年に上がる春のキャンプで他の選手の打球を右足首に受けて骨折[3]。その後は伸び悩み、リーグ戦で投げることはできなかった[2]。日本通運浦和に就職後、捕手に転向[4]し、4年で社会人野球を辞めた後は横浜市にある実家の材木店を継いだ[2]。
その後は野球を離れていたが、7年後の1970年に立教大学の先輩から、六大学野球の審判員に欠員が出たため[2]、神宮球場で審判をしてほしいという誘いがあり受託する[3]。その後、高校野球や社会人野球でも審判を務めるようになる。
1988年、国際野球連盟の国際審判員の資格を取り、世界選手権などでも審判を務めた[2]。独学で英語とスペイン語を習得する[2]。
福岡ユニバーシアード、第18回アジア野球選手権大会でチーフを務めて力量が高く評価されたことにより、1996年2月7日、国際野球連盟の1995年度最優秀審判(アンパイア・オブ・ザ・イヤー)に日本人で初めて選出された[5][6][7]。
1996年7月19日から8月4日まで開かれたアトランタオリンピックでは、野球審判員として日本人でただ1人だけ選ばれた[2][3][4][8]。日本人で野球審判員に選ばれたのは、ソウルオリンピック、バルセロナオリンピックに参加した布施勝久に続いて2人目である[9]。