田中諭吉
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福岡市博多川端町の陶磁器店に生まれる[1]。名前は、田中の誕生日から5日後に亡くなった福澤諭吉にちなんでつけられた[2][3]。16歳で父を亡くし、絵画を独習する[1]。1928年(昭和3年)福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社)に入社、絵画部に所属。同僚に漫画家の長谷川町子がいた。新聞記事に付けるスケッチを描く仕事であったが[2]、その後企画広告部門に移った[1]。
太平洋戦争終結後の1945年、西日本新聞社の郷土再建活動案として西鉄福岡駅付近に商店街を建設することを企画、これを元に新天町が誕生したとされる[1][4]。
1961年1月に西日本新聞を定年退職し、その後は広告代理店の西広、大広に勤務した[1]。この時期、1961年2月に節分の櫛田神社におたふく面を「福くぐり」として設置したのをはじめ、博多祇園山笠での「集団山見せ」(1962年開始)、櫛田神社の常設山笠、太宰府天満宮の曲水の宴(1963年開始)など、地域の催事について企画提案をおこない、実現させている[1]。1970年、69歳で逝去。
エピソード
主な業績
主な著書
『企画奥の手』1961年 積文館