田沼意明
江戸時代中期の大名 (1773-1796)
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略歴
田沼意次の世子で若年寄を務めた田沼意知の長男。正室は織田信浮長女の喜姫。
意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため、祖父である意次の世継となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良領は意次最盛期の5万7000石から意明継承時には2万7000石まで減封され、さらにそののち下村1万石に減移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚までは、領地へ下向することも許されず、江戸定府とされ、将軍への御目見や従五位下の官位任官も受けられなかった。
寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、領地を一度も見ることなく[1]同年24歳で死去し、跡を弟で養嗣子の意壱が継いだ。