田辺カントリー倶楽部

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所在地 日本の旗 日本
京都府京田辺市薪小字平田谷73-1
開業 1960年昭和35年)11月6日
運営 メンバーシップコース
田辺カントリー倶楽部
Tanabe Country Club
田辺カントリー倶楽部
田辺カントリー倶楽部の空中写真。
2008年5月16日撮影の2枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
所在地 日本の旗 日本
京都府京田辺市薪小字平田谷73-1
座標: 北緯34度49分21.4秒 東経135度44分50.88秒 / 北緯34.822611度 東経135.7474667度 / 34.822611; 135.7474667
概要
開業 1960年昭和35年)11月6日
運営 メンバーシップコース
設計 佐藤 儀一
運営者 一般社団法人 田辺カントリー倶楽部
コース

OUT IN
HOLEPARYARDHOLEPARYARD
1 5490 1 5492
2 4421 2 4425
3 4370 3 4360
4 3195 4 5527
5 5600 5 3218
6 3210 6 4424
7 4383 7 4358
8 4422 8 3178
9 4362 9 4445
363453 363427

その他
公式サイト 田辺カントリー倶楽部
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田辺カントリー倶楽部(たなべカントリーくらぶ)は、 京都府京田辺市にあるゴルフ場である。

1958年昭和33年)、第一次ゴルフブームが始まっていた、大阪製鋼株式会社の社主・高石義雄は「宝塚ゴルフ倶楽部」(1926年(昭和元年)開場、設計・広岡久右衛門、福井覚冶)で、同伴の寺本清次郎(後・田辺カントリー倶楽部キャプテン)とプレー中だった[1]。高石は寺本に「われわれ仲間だけでいつでもプレーできるゴルフ場を造りたいね」「18ホールを造るくらいは、私ひとりの力でなんとかなる」と呟いた[1]

高石義雄は、ゴルフが上手くハンディキャップ8で、休日はゴルフ場と決まっていたが、休日のスタート予約もままならなかった[1]。2年後、独り言が現実になり動き出した、ゴルフ場の建設用地は大阪府との府境の田辺町(現・京田辺市)の比較的フラットな土地だった[1]

1960年(昭和35年)3月11日、コース設計は、日本アマチュアゴルフ選手権競技4回優勝、「廣野ゴルフ倶楽部」(1932年(昭和7年)開場、設計・C・H・アリソン)クラブチャンピオン12回、廣野ゴルフ倶楽部キャプテンの佐藤儀一に依頼し、コースの造成工事が着工された[1]。同年9月1日、コースが完成し、仮オープンされた[1]。同年11月6日、18ホール、6,648ヤード、パー72規模のゴルフ場が完成し、開場された[1]

「田辺カントリー倶楽部」は、ただひとりの財力で造られたゴルフ場である、戦後では唯一、日本ゴルフ史上においても、神戸市垂水日本綿花株式会社(現・双日株式会社)・南郷三郎が造った「舞子カントリー倶楽部」(現・垂水ゴルフ倶楽部、1920年大正9年)開場、設計・J・E・クレーン)以来であった[1]。倶楽部運営も特別で、経営母体は任意団体である高石個人が経営責任者であり、会員権譲渡は不可のプライベートクラブである[1]

所在地

〒610-0341 京都府京田辺市薪小字平田谷73-1

コース情報

  • 開場日 - 1960年11月6日
  • 設計者 - 佐藤 儀一
  • コースタイプ - 丘陵コース
  • コース - 18ホールズ、パー72、6,880ヤード、コースレート73.2
  • フェアウェー - コウライ
  • ラフ - ノシバ
  • グリーン - 2グリーン、ベント
  • 練習場 - 20打席247ヤード
  • 休場日 - 毎週月曜日、12月31日、1月1日[2]

ギャラリー

交通アクセス

鉄道[3]

道路[3]

エピソード

  • 初代理事長の高石義雄は、プレー中であっても雑草を見つけると、同伴プレーヤーにも草むしりをさせたという、それほどコース熱愛ぶりは凄かった[4]
  • 3代目理事長の誠二婦人・勝子は、クラブハウス内のアレンジメントを自ら買って出て、テーブルにはほうじ茶玄米茶を並べ、夏には冷たいタオルを自ら配ったという[4]

脚注

関連文献

関連項目

外部リンク

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