由谷敬吉
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東京六大学野球
夕刊フジ1972年2月1日-3日に野球評論家近藤唯之により連載された「プロフェッショナル」のコラムに、由谷敬吉のことが紹介されているので一部抜粋する。
広瀬謙三編集(公式記録員第1号)1957年10月10日発行「日本の野球発達史」によると「名投手三羽烏」の戦績は東武雄15勝36敗4分け、梶原英夫4勝14敗、由谷敬吉4勝25敗6分け(但し5勝21敗とも[4])。帝大は1925年5月1日駒沢球場での対明大1回戦で6-3で負けて以来、太平洋戦争で東京六大学野球が解散する1942年10月25日、神宮球場での対法大1回戦に6-0で負けるまで引き分けを除いて62勝268敗実に勝率1割8分8厘しか残していない。こういう背景の中で3人は投げたのだから「名投手」と言われながら負け数が多いのは仕方が無い。特に由谷敬吉が投げたときの1937年-1939年3年間の帝大の平均打率は1割8分6厘と六大学中最下位であった。
由谷のまじめな性格を示すエピソードがある。1934年8月19日西京極球場で行われた第28回一高対三高定期戦で一高は19対0で勝った。別表のスコアでも分かるように、一高は3回終了時点で14点をいれ99%勝ちをものにした。しかし由谷は手を抜かない。1953年4月1日発行「一高三高野球戦史」によると次のようになる。▽4回表(三高)5番中村治夫一塁手、6番藤末尚捕手、7番池垣吉幸二塁手、三者枕を並べて三振にたおさる。▽8回表(三高)4番円尾松太郎投ゴロ、5番中村三ゴロ、6番藤末三振。▽9回表(三高)7番池垣二ゴロ、8番福田正一右翼手、9番上野静男三塁手代打某(実名は書いていない)ともに三振にてゲームセット。要するに19点の得点を背にしながら、由谷は最後の代打某にいたるまで汗水たらして投げていたのである。
<第28回定期戦>
三高 000 000 000| 0
一高 455 100 31X|19
