申培

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申 培(しん ばい、生没年不詳)は、前漢初期の儒学者。生年は紀元前230年頃から紀元前220年頃。死は紀元前140年頃から紀元前130年頃。詩(詩経)を専門とし、著作に『魯詩』または『魯故』があった。

史書『史記』『漢書』では敬称の申培公または申公で見える。

の人物。荀子の流れをくむ学者で、の時代に浮丘伯に学んだ。後にを建てた劉邦の弟、劉交は、若いころ浮丘伯を師として申培とともに学んだ[1]

漢の建国後、高祖劉邦が魯を通過した際、師の浮丘伯に従って魯の南宮で高祖に謁見した[2][3]

劉交は、高祖6年(紀元前201年)に楚王(元王)に封じられると、申培を楚の中大夫にした[1]呂后の時(紀元前182年から紀元前180年)、浮丘伯が長安にいると知り、劉交は子の劉郢客と申培をやって浮丘伯に学ばせた[1]文帝のとき、劉郢客は宗正となり、申培は博士になった[1]

文帝2年(紀元前178年)に劉交が死ぬと、劉郢客が後をつぐことになり(夷王)、申培はともに帰国してまた中大夫になった[1]。申培は、王の世子である劉戊の傅(教育係)になったが、劉戊は学問を好まなかった[2]

文帝6年(紀元前174年)に劉郢客が死に、劉戊が楚王になった。劉戊は儒者を軽んじ、景帝2年(紀元前155年)に呉王と通じて反乱をたくらんだ[1]。諫めた申培は罪におとされ、鎖につながれ、市場にあって杵で臼を搗く労役をさせられた[1]。杵で臼を搗いて脱穀するのは漢代の女の標準的な懲役刑で、男は城壁作りをすることになっていた。劉戊は翌景帝3年(紀元前154年)に呉楚七国の乱を起こして敗死した。

申培は魯に帰って深く恥じ、賓客を謝絶し、家の門を出ず、王(魯の共王劉余)が召すときだけ外出した[2][3]。教えを求める人が多く、百余人(『史記』)、あるいは千余人(『漢書』)の弟子ができた[2][3]

武帝の即位(紀元前141年)後、弟子の王臧趙綰が申培を武帝に推薦した。申培はそのとき齢八十を過ぎていた。武帝に政治について問われ、「治をなすは多言すべからず。ただ力行の如何にあるのみ」と答えた[3]。むしろ雄弁多才を好んだ武帝はその答えが気に入らなかったが、申培を太中大夫に任じた[3]。申培は魯の国邸に住み、明堂について検討した[3]

武帝の祖母である竇太皇太后は儒者を嫌い、王臧と趙綰の失態を探り出して処罰を願った[3]。獄に下された二人は自殺した[3]。申培は病気で魯に帰り、数年後に死んだ[3]

学問と著作

脚注

参考文献

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