申泰英

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死没 (1959-04-08) 1959年4月8日(68歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
軍歴 中佐(日本陸軍)
中将(韓国陸軍)
申 泰英
生誕 1891年2月1日
朝鮮国漢城府
死没 (1959-04-08) 1959年4月8日(68歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織  大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
軍歴 中佐(日本陸軍)
中将(韓国陸軍)
除隊後 国防部長官
墓所 国立ソウル顕忠院将軍第2墓域3号
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申泰英
各種表記
ハングル 신태영
漢字 申泰英
発音: シン・テヨン
日本語読み: しん たいえい
各種表記(創氏改名・通名)
漢字 平山輔英
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申 泰英(しん たいえい、シン・テヨン、신태영、1891年-1959年)は大韓民国軍人国防部長官。第3代陸軍参謀総長を務めた。創氏改名による日本名平山輔英。日本陸軍少佐、韓国陸軍中将の申應均の父。

1891年、漢城府に生まれる。

1905年2月、大韓帝国陸軍幼年学校に入学し、翌年8月に陸軍武官学校進学[1]

1909年9月、陸軍幼年学校予科3年に編入[1][2]

1912年に陸軍士官学校へ入学して1914年に26期生として卒業。同期に李應俊洪思翊池青天安秉範などがいる。名古屋の第3師団歩兵第33連隊に配属[3]見習士官を経て同年12月25日、少尉任官[4]

1918年7月29日、歩兵中尉[5]。同年、シベリア出兵に参加[3]

1921年2月、歩兵第74連隊[6]

1925年3月18日、歩兵大尉[4]

1927年12月16日、歩兵第74連隊中隊長[5]

1928年10月1日、陸軍歩兵学校に甲種学生として入学[7]

1929年、陸軍歩兵学校戦術科卒業[8]。同年12月10日、歩兵第74連隊附[9]

1933年8月1日、歩兵少佐[4]

1934年8月1日、歩兵第80連隊附となり、大田公立中学校の配属将校[4]

1935年7月30日、第18次満州事変論功行賞で旭日章4等を授与[10]

1938年、歩兵中佐[3]。同年、陸軍歩兵学校卒業。

1940年3月29日、平山輔英に改名[11]

1942年7月、龍山停車場司令官[3][8]

1943年3月1日、予備役編入[12]。臨時特別支援兵制度鍾路翼賛会に参加し、朝鮮人の兵力動員を宣伝・扇動する役割を果たした[3]

1943年11月17日、京城日報に「把握せよ鐵の信念 初陣の目標わ靖國神社」との題目で手記を発表[10]。朝鮮人は、帝国の臣民となって大和民族と渾然一体となり日本人を中心に東アジアを開拓と主張した[10][3]

1944年4月20日、海州陸軍兵事部部員[13]。同年10月3日、海州陸軍兵事部課長[14]

1948年、韓国陸軍に入隊(軍番12311番[15])し、11月に大領となり陸軍本部行政参謀副長兼国防部第1局長[16]

1949年5月、任准将。8月、護国軍参謀副長。10月、任少将、陸軍参謀総長。1950年4月10日、辞任[17]。国防部長官の申性模と馬が合わず、顧問制度嫌っていたことから、不和が重なったためと言われている[17]

1950年4月、兵器行政本部長。

6月25日の朝鮮戦争の勃発に伴い7月8日に全羅北道編成管区司令官となり、全羅北道の防御を担当したが申性模と用兵上の意見が衝突して7月28日に罷免される[16]

1952年1月、現役復帰して陸軍本部付となる[16]。3月、任中将、予備役編入。編入後、国防部長官。釜山政治波動では、戒厳令を宣言し、大邱の陸軍本部に1個師団の兵力を戒厳軍として送るように要請した[18]。1953年6月18日、李承晩大統領による反共捕虜が釈放され、国防長官宿泊施設に記者が集まった[19]。申は捕虜釈放の事実を知らずにいたが、景武台にいる秘書の説明を元に記者会見を終えた[19]。このようなことがあって辞表を出したが、李承晩はこれを受け取らず、「ただでさえ仕事が多いのにそうすればどうなるか」と申を叱った[19]。しばらくしてロバートソン次官補、李承晩、申の3人で会談が行われたが、申には通訳が付いていなかったため、会談内容を聞き取ることができなかった[19]。落胆した申は、その日の夕方に再び辞表を書き、これが受理されて6月30日に国防長官を辞退した[19]

1953年7月24日、民兵司令官[20]

1956年6月、再び予備役編入。

1959年4月、死去。

勲章

  • 勲五等瑞宝章 - 1927年11月29日[21]
  • 勲四等瑞宝章 - 1934年3月9日[22]
  • 勲四等旭日章 - 1935年
  • 勲三等瑞宝章 - 1940年8月16日[23]
  • 紀元二千六百年祝典記念章 - 1940年[24]
  • 無星忠武武功勲章(勲記番号第3146号) - 1950年12月30日[25]
  • 無星忠武武功勲章(勲記番号第3487号) - 1950年12月30日[26]
  • 防衛褒章(勲記番号第2745号) - 1956年10月29日[27]

評価

出典

参考文献

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