慶尚北道出身のため東南方言を使うが、履歴書の本籍欄はいつも長く医者として活動していた全羅北道茂朱郡と記入した[1]。
第5代国会議員当選時は民主党内の中道派だったが、張勉の粘り強い説得により新派に加わり、1960年8月23日に保健社会部長官に任命された。しかし、まもなく民主党は新旧派の内紛により分裂し、張勉が政局安定化の思惑により旧派5人を入閣させたため、申は就任のわずか20日後の9月12日に無任所長官に転任された。さらにその2か月後の1960年11月、道知事の実務経歴などにより、内務部長官に任命された。なお、申の保健社会部長官の後任は全北道知事時代に因縁をつけてきた羅容均議員である[5]。