畠山景広
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畠山 景広(はたけやま かげひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。上杉氏の家臣。
- ↑ なお、「文禄三年定納員数目録」には「上条様附」として8名の家臣の知行高が記載されており、「会津御在城分限帳」「直江支配長井郡分限帳」にも「上条弥五郎 1100石」の記載がある。参考 矢田俊文他編『上杉氏分限帳』高志書院
- ↑ 『上杉家御年譜』による、「畠山弥五郎景広ノ嫡子。綱勝公御代明暦元年(1655)八月十七日五百石 万治二年(1659)正月廿七日五十五歳ニテ卒」
- ↑ 家系図には政乗(兄)、親元(弟)と記されているが、『上杉家御年譜』によれば、政乗は天和3年(1683年)7月3日に53歳で没しており、逆算すると生年は1631年となる。一方、親元は大友義親の次男とされ、義親の没年から考えると、生年は少なくとも1619年頃と推定される。このことから、親元の方が政乗より十数歳以上年長であった可能性が高い。
- ↑ 初めは利根川新之丞。大友義親と今川範以の娘との間に子は存在しないため、妾腹の子であった可能性が高いと考えられる。また、大友義統の弟・大友親家は一時、利根川氏と称したので、実際に親家の子や孫である可能性もある。
- 『柳河藩立花家分限帳』P.47によると、「立齋(立花宗茂)樣御従弟違、大友義統公御孫義景(義親)公ノ御次男、畠山ノ家相続」
元和7年(1621年)から慶安5(1651年)年まで柳河藩立花家に仕官した畠山外記政利(上杉家一門の畠山景広の子)の養子になって、畠山外記親元と改名した。
- 今泉亨吉 『原方士族の次男坊』によると、慶安5年(1651年)に上杉家へ復帰した養父・政利に従い、明暦元年(1655年)8月中に米沢藩士となった。延宝7年(1679年)6月15日、上杉綱憲の命により二本松外記国隆と名を改めた。嫡子の政永(畠山主水)はのち政利の実子・備前守政乗の次女を娶ってその跡を継ぐ。次男の外記逸学(のち国政と名を改めた)が二本松氏として家督を継いだ。