番匠谷英一
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現在の大阪府泉佐野市にて運送業を営み、泉陽銀行取締役を務めた番匠谷平吉の長男として生まれる。旧制岸和田中学校、第三高等学校を経て1920年京都帝国大学独文科卒業。1924年懸賞戯曲『黎明』に当選し、劇作家として活動するかたわらドイツ文学の翻訳を行う。1928年立教大学教授、61年定年となり名誉教授。
シュニッツラーを中心にドイツ文学、またアンデルセンなどを翻訳した。また劇作家として、源氏物語、宇治十帖を扱った戯曲を残した。
立教大学で教鞭を執る傍ら、立教大学劇研究会の会長も務めた[1]。
1933年(昭和8年)、劇団 新劇場が『源氏物語』の上演を計画。番匠谷が脚本の執筆を担当した。しかし、上映直前の同年11月22日、警視庁が風教上問題があるとして上映禁止を通達。お蔵入りとなった[2]。
なお、妻の文子は京都府士族で日本薬品工業の常務取締役を務めた岡松忠利の次女。日本精工専務を務めた番匠谷淳一は長男、ダマスカスやアレッポといった中東諸都市で活動した建築家・都市計画家、番匠谷尭二(ばんしょうや ぎょうじ)は次男である。