登誉天室
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経歴

相模国小田原の人。三河国(現・愛知県岡崎市)の浄土宗成道山大樹寺の13代目住職。
永禄3年(1560年)5月19日昼頃、今川義元は桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日菩提寺の大樹寺に入った[4][5]。このとき、登誉上人と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたと言われている[6]。ほどなく今川軍は岡崎城を退去し、23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。
厭離穢土欣求浄土と登誉天室との関係
徳川家康の馬印の一つとして用いられた「厭離穢土欣求浄土」(穢れたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める)の纏[6]と登誉上人の関係については様々な説がある。
敵兵に追われた元康が、逃げ込んだ大樹寺の先祖の墓前で最早これまでと自害をはかろうとしたとき、登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の教えを諭し、切腹を思いとどまらせたというエピソード[7][8]は、裏付ける史料・文献が存在しない[3]。山岡荘八の小説『徳川家康』でも書き記されていない[注 1]。小説が完結する5年ほど前、山岡は『週刊現代』1962年10月14日号から1963年8月1日号にかけて、『随想徳川家康』と題するエッセイを連載した。このエッセイの中でその説を詳細に語った[10]。そして小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『徳川家康』が採用したことから、一般に広く知られるようになった[11][12]。2023年放映の大河ドラマ『どうする家康』は「厭離穢土欣求浄土」の言葉を榊原康政に言わせている[13]。