白ロシア共産党

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ベラルーシの歴史

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ベラルーシ共産党(ロシア語:Коммунистическая партия Белоруссииベラルーシ語:Камуністычная партыя Беларусі)は、1917年に設立され、1993年まで存在した共産主義政党である。

1922年に成立したソビエト連邦の構成国である白ロシア・ソビエト社会主義共和国における決定機関を担った。

1917年ロシア革命を受けて、1918年12月30日ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の一部として、白ロシア共産党(ボリシェヴィキ)(ロシア語:Коммунистическая партия (большевиков) Белоруссии)が創設された。当初の党員数は17,800人であった。

党は1919年1月白ロシア・ソビエト共和国を樹立する上で重要な役割を果たした。1919年2月から1920年までは、リトアニア共産党と合同で活動し、リトアニア・白ロシア共産党(ボリシェヴィキ)として機能した[1][2]

1952年に党名は白ロシア共産党へと改称された[3]

白ロシア共産党は、民主集中制を原則とする共産党であった。この原則はレーニンによって導入され、党内における民主的かつ自由な討論を認める一方、方針決定後は完全な統一と規律をもってそれを支持・遂行する義務を課すものである。

党の最高機関は党大会であり、5年ごとに開催された。党大会閉会中は中央委員会が最高機関となったが、中央委員会は年2回しか開催されなかったため、基本的な党運営は主に政治局および書記局が担った。

党指導者は白ロシア政府の首脳であり、書記長、首相国家元首のいずれか、あるいは三職のうち二職を兼任することはあっても、三職すべてを同時に兼任することはなかった。党指導者は事実上の白ロシア共産党政治局議長であり、共和国の最高執行責任者であった。

イデオロギー面では、マルクス・レーニン主義を採用していた。これは、カール・マルクスの思想とレーニンの理論を融合したものであり、ヨシフ・スターリンの下で公式な党の指導理念として確立され、その死後も党史を通じて基本姿勢として在り続けた。

白ロシア地域の自立をめぐる議論が続く中、ペトログラードにいた白ロシア代表団は、スターリンによる自治的白ロシア政権構想を比較的受け入れる姿勢を示していた。一方で、白ロシア共産党第一書記のアレクサンドル・ミャスニコフは、ミンスクを掌握していたにもかかわらず、白ロシアの将来に関する決定権を他勢力と分かち合うことに消極的であった。

この内部対立の結果、白ロシア民族主義勢力は全白ロシア民族大会を招集し、1,872名の代表が国家の将来について討議した。大会では代表評議会(ラーダ)の設立が決議されたが、共産党はこれを弾圧し、ラーダは地下活動を余儀なくされた[4]

1930年代、白ロシア共産党はスターリンによる大粛清の最も激しい標的の一つとなった。著名な党指導者の大多数が逮捕・抹消され、党員全体の約40%が粛清された。

1990年7月28日白ロシアSSR憲法第6条から、白ロシア共産党の権力独占規定が削除された。

1991年8月25日から1993年2月3日まで、ベラルーシ共産党の活動は停止され、4月25日の臨時の第32回ベラルーシ共産党大会において、ベラルーシ共産党が「ベラルーシ共産党(PKB)」に合流することが決定された[5]。これにより正統後継政党はPKBとされたが、1996年にPKBのうちのルカシェンコ派が第33回KPB党大会と称する決起集会を行い、KPBの復古を宣言した。これが現在のベラルーシ共産党である。

党第一書記

脚注

関連項目

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