白主土城

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白主土城(しらぬしどじょう)は、現在のサハリン島クリリオン半島のマイデル岬にあり、日本統治下(1790年 - 1875年、1905年 - 1945年)では旧南樺太の南端の西能登呂岬(にしのとろみさき)をのぞむ白主(シラヌシ)にあった、中世時代の城跡である。具伊[1]、果夥(クオフオ)・果夥城とも呼ばれる。

現在、白主土城の遺跡はロシア・サハリン州クリリオン半島の南西海岸のマイデル岬にあるクリリョンスキー川が流れ込む 西能登呂岬(m.Kril’on)西海岸北方2キロメートルの海成段丘上にあり、北海道宗谷岬からは約45キロメートルの地点になる。白主土城のロシア名はクレポスチ・シラクシКрепость Сиракуси)。戦前までの遺跡の所在地住所は日本国樺太の真岡支庁本斗郡好仁村大字白主字白主となっていた。しっかりとして状態のよい大陸式の城跡は、緯度の高い極寒厳しい地域では非常に珍しい遺跡とされて、天気の良いときは宗谷岬からも見える日がある。土城のある白主村は、江戸時代から幕府が設立した交易所があった場所で、漁業を中心とした日本人が多い村であり、漁期に募集されるアイヌや山丹で商品取引するウルチなどが拠点にする一つでもあった[2]

地名の語源は、アイヌ語の「シララ (岩)」と「ヌシ(多くの)」に由来するとする説があるが、古くから「白主村」は「不知主村」と別の漢字で表記されており、いつ誰が建てたかわからず「主(ぬし)が知(し)れない」その村の土城跡を日本人が「しらぬぬし(不知主)」と呼んでいたことを地名の由来とする説もある。かつてこの遺構を伊東信雄が「支那式土城」と名付けて有名になったことがあったが、その頃地元では「グイの土城」とも呼ばれた[3][4]

中国の歴史書『元史』「元文類(国朝文類)」に記載されたサハリン地域の「果夥」(クオフオ)という地名(施設名)はこの「白主土城」であるとされており、近年の歴史関連書籍のほとんどが、白主土城と果夥を同一のものとして扱っている。

遺構・構造

遺跡調査・版築をもとにした白主土城の想像図

白主土城遺跡は江戸時代に発見された。その構造は1辺約120mの方形で、壕と土塁を有し、大陸でみられる版築の技術を用いて築造された方形土城であった。オホーツク人やニブヒ、アイヌなど原住民が作った建造物には見えないという。特に約20 cm単位の土留めを用いたと推測される精緻な版築技術は、サハリン地方では非常に珍しい技法だという。金朝元朝の技術の影響が窺えるとする指摘もある。土台である土城の平面形は、変形した台形型をしており城の南西にあたる海岸段丘の崖面を正面としている。設計には海からも容易に確認できるように海岸に面することを意図して建てられているという。三辺の土塁のうち、残存する北西と南東の土塁には、幅4メートルほどの門が五つ有する。コの字状に一辺約110mの郷及び土塁が残る。土塁の幅は、地点により一定ではないが、下端が約6メートル、上端が約2.5メートルで、塁の外側を廻る空堀があるという。[5][3]

土城の遺構からは、大陸産の9世紀から13世紀のころのパクロフカ文化の陶器(破片など八点)が出土している。版築は万里の長城にも用いられた技法であり、また、1尺 = 31.6 cmの尺度を用いていることから、築造された時期については11世紀から13世紀の金朝から元朝の前記時代、日本ならば平安末期の奥州藤原の時代から鎌倉時代後期のあたりだろうとされてる。白主土城の目的や用途については、軍事用の要塞、あるいは交易所であろうと推察されるという[6][7]

歴史・築城時期

関連資料施設

脚注

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