白延遇
From Wikipedia, the free encyclopedia
幼くして太原府の公宮で養育された。後唐の長興元年(930年)、石敬瑭に従って剣南東川節度使の董璋を討ち、敏捷勇猛なことで知られた[1]。
後晋が建国されると、延遇は禁軍をつかさどり、検校司空に累進した。天福6年(941年)、安重栄が鎮州で反乱を起こすと、高祖(石敬瑭)は杜重威に命じて諸将を統率して安重栄の反乱軍を防がせた。延遇はこれに参加できなかったため、泣いて高祖に訴えた。軍の先頭に立ちたいと願い出て、これを許された。宗城県で戦いが起こると、延遇は部下を率いて先頭に立って戦い、数十人を斬った。戦闘がたけなわとなって、延遇の剣は折れた。このため諸将はかれに信服した。高祖がこのことを聞くと、宦官の使者を派遣して宝剣と良馬を延遇に与えた。安重栄の乱が鎮圧されると、延遇は功により検校司徒となり、馬軍左廂都校をつとめた。のちに汾州刺史として出向し、復州防禦使に転じた[2]。
広順元年(951年)、後周が建国されると、延遇は検校太保を加えられた。ほどなく開封府に帰った。広順2年(952年)、慕容彦超が兗州で反乱を起こし、太祖郭威が親征の軍を起こすと、延遇は先鋒都校となった。慕容彦超の乱が鎮圧されると、延遇は斉州防禦使に任じられた。一カ年あまりして、兗州防禦使に転じた。兗州にいること2年、その統治は善政で知られ、州民数百人が宮殿を訪れて、徳政碑を立てるよう求めた。顕徳2年(955年)冬、世宗柴栄が宰相の李穀を淮南道行営前軍都部署に任命すると、延遇は先鋒都校となった。顕徳3年(956年)春、延遇はその部下を率いて韓令坤とともに揚州に入った。ほどなく別部を率いて盛唐県に駐屯し、前後して南唐軍1万人あまりを破った。顕徳4年(957年)夏、世宗が寿州から凱旋すると、延遇は同州節度使となった。赴任しないうちに、再び軍を率いて南征するよう命じられた。この年の冬、濠州城下で病没した。太尉の位を追贈された[2]。