白承福
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
中山の北の石門に拠って柵を作った。後唐の荘宗李存勗が寧朔・奉化の2府を置くと、承福は都督となり、李紹魯の姓名を賜った[1]。
後晋の高祖石敬瑭が即位すると、燕雲十六州が契丹に割譲され、吐渾は契丹に従属するようになった。承福は契丹の苛酷な統治に苦しみ、成徳軍節度使の安重栄と連絡して塞内に入った。このことで契丹の太宗耶律堯骨の怒りを買った石敬瑭は、供奉官の張澄を派遣して、并州・鎮州・忻州・代州などの山谷にひそむ吐渾を狩りだした。しかし後晋が契丹に苦しめられるようになると、劉知遠を太原に駐屯させて、吐渾を庇護した[1]。
出帝石重貴が契丹と絶縁すると、承福は開封に入朝して、大同軍節度使に任じられた。承福は劉知遠に従って嵐州・石州のあいだに居住していたが、劉知遠の圧迫を受けて、再び塞外に出た。開運3年(946年)、承福は劉知遠に包囲され、赫連海龍・白可久・白鉄匱らやその一族とともに殺害された[2][3]。