白露型駆逐艦

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種別 一等駆逐艦[2]
同型艦 10隻[3]
白露型駆逐艦
白露型前期艦(公表写真)[1]
基本情報
種別 一等駆逐艦[2]
運用者  大日本帝国海軍
同型艦 10隻[3]
前級 初春型駆逐艦
次級 朝潮型駆逐艦
要目 (計画)
基準排水量 1,685英トン[4]
公試排水量 計画 1,980トン[4]
1934年時計画 2,077.5トン[5]
満載排水量 2293.8トン[5]
全長 111.0m[6][注釈 1]
水線長 107.50m[5]
垂線間長 103.50m[5]
最大幅 9.90m[4]
計画 10.00m[5]
水線幅 9.90m[5]
深さ 6.05m[5]
吃水 公試平均 3.50m[4]
または1934年時計画3.622m[5]
満載平均 3.875m[5]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 3基[4]
主機 艦本式タービン(高低圧) 2基[4]
推進器 2軸 x 400rpm[4]
直径3.050m、ピッチ3.700m[7]
出力 42,000shp[5]
速力 34ノット[5]
航続距離 4,000カイリ / 18ノット[5]
燃料 重油 540トン[5]
乗員 計画乗員 226名[8]
兵装 50口径三年式12.7cm砲 連装2基4門[9]
同単装1基1門[9]
保式25mm連装機銃 2基(計画)[9]
40mm単装機銃2挺 または 13mm連装機銃 2基(竣工時)[10]
(61cm)九二式4連装改二魚雷発射管 2基8門[11]
九〇式魚雷16本[11]
(1943年3月時 九三式一型魚雷改二14本[12])[注釈 2]
九四式爆雷投射機2基、装填台2台[11]
爆雷投下台水圧三型2基、手動一型4基(計画)[11]
同水圧二型2基、手動二型2基(1943年時)[12]
爆雷投下軌道2条[13]
計画 九一式一型爆雷 36個[11]
(1943年3月時 九五式爆雷 18(10)個[12])[注釈 3]
搭載艇 7.5m内火艇2隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(母港保管)[14]
その他 計画[11]
二号二型大掃海具1.5組
一型改一小掃海具2組(または1組)
1943年3月[12]
対艦式二型大掃海具1.5組(または1組)
一型小掃海具2組(または1組)
掃海立標2、一型掃海機灯2、一型水中処分具2または1、二号爆破鈎改一10または2
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白露型駆逐艦(しらつゆがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の一等駆逐艦[2]の艦級である。初春型駆逐艦の準同型艦ともいえる艦級であった。なお、一番艦白露から五番艦の春雨までは有明型駆逐艦(ありあけがたくちくかん)に類別されていた時期もあった[15]

当初「①計画」で1,400トン型駆逐艦12隻の建造予定であったが、竣工した初春型一番艦「初春」、二番艦「子日」は過大な武装のため重心上昇が判明し、初春型の建造は起工済みの6隻で打ち切られた[16]。1,400トン型の残り6隻は設計を改めることを決定、更に友鶴事件が発生して設計を一からやり直し[16]、初春型の改良型として建造されたのが「一等白露型」であった。

計画番号はF45D(初春はF45)[5]。設計は初春型より復元性能を向上させ、性能改善後の初春型より速力を回復させることが主眼とされた[16]。機関は初春型と同一、船体は全くの別設計とした[17]。主砲配置は改装後の初春型と同じであるが、魚雷は初春型(改装後)の6門では少ないとされ、海軍初の4連装魚雷発射管を2基装備し8射線を確保した[16]。船体は電気溶接できるDS鋼の一部を使用し、溶接の使用範囲を広げて軽量化を図った[16]。またバラストの代わりとして艦底外板を厚くして重心を下げ、同時に船体強度の強化も図った[16]。建造中に発生した第四艦隊事件により本型も船体補強対策が施された[16]。電気溶接が多用されていたので、吹雪型(特型)駆逐艦に次いで大がかりな工事だったという[16]

続く「②計画」では同じ1,400トン型駆逐艦14隻を建造する予定だったが、主機などが手配済みだった4隻で本型の建造を中止し、残り10隻はより大型の朝潮型駆逐艦の建造に着手することとなる[16]。結局本型は①計画、②計画合わせて10隻となった[16]

なお、初春・白露両型は共に規定排水量をオーバーしているが、このことは諸外国には伏せられていた。

戦後、海上自衛隊初の国産護衛艦として設計されたはるかぜ型護衛艦のタイプシップの一つとなった。

艦艇類別等級別表においては、1933年(昭和8年)12月15日、有明夕暮は初春型から外され、白露、時雨村雨とともに有明型駆逐艦として新設された[15]1934年(昭和9年)10月13日、さらに夕立と春雨も追加されるが[18]、夕暮までと白露以降は設計が変更されており船体構造も大きく異なることから、同年11月19日、有明と夕暮は初春型に復され、有明型は白露型と改められた[19]

白露改型(海風型駆逐艦)

第二次軍備補充計画(通称「②計画」)で計画された海風以降の4艦は設計が改められ、白露改型[16]もしくは海風型と呼ばれることもある。海風型駆逐艦は、設計段階までは実際に使用されたものの[20]、最終的には「白露型駆逐艦」に類別されることになった[3]

白露型(①計画艦6隻)と兵装、性能は同じだが、船体構造などが変更されている[16]。船体での電気溶接の範囲を更に広げて軽量化が図られた。しかし4隻の起工前後に第四艦隊事件が起こり、電気溶接範囲の制限や船体強度の検討を再度おこなって設計を新しくし、工事を再開した[16]

外観の特徴の一つとして艦橋形状が変更された[16]。これは以降の艦橋の標準型を決めるため、「海風」建造時に羅針艦橋より上の実物大模型を製作して決定[21]朝潮型陽炎型の艦橋も似た形状となった[16]

対空用に採用した40mm単装機銃2挺は、改白露型では13mm連装機銃2基に改めたとされる[16]。しかし「海風」の公試時の写真には40mmらしい機銃が写っている[22]などはっきりしない。また25mm連装機銃2基を搭載したとする文献もある[23]

兵装

主砲

12.7cm連装砲C型2基、同単装B型1基を装備した[16]。これらは最大仰角55度だった(それ以前は75度)[16]。なお白露は単装砲にA型改1を仰角55度に変更したものを搭載した[16]。また夕立の1番連装砲は写真よりB型改2であることが判明している[24]

配置は改装後の初春型と同様、船首楼甲板に連装砲1基、艦尾上甲板上に単装1基、連装1基を背中合わせで搭載した[16]。大戦後半になり機銃増備のため単装砲は撤去された[25]

機銃

25mm連装機銃2基の搭載を計画したが[9]、上述したとおり竣工時は40mm単装機銃2挺もしくは13mm連装機銃2基だった[16]。1942年末に九六式二十五粍高角機銃2基と交換、代償重量として予備魚雷2本と格納庫を撤去するよう通達された[26]。その他に艦橋前に25mm連装機銃1基、主砲1基を撤去し25mm3連装機銃1基を装備してあ号作戦時には合計25mm3連装3基、同連装1基となった(白露の例)。残存していた時雨と五月雨にはその後さらに単装機銃が装備され、時雨ではそのために搭載艇の一部を降ろしている[25]

水雷兵装

日本海軍の駆逐艦で初めて4連装発射管を装備する[16]。改装後の初春型の6射線(3連装2基)では命中の公算が低くなるとして用兵側が8射線を要求、3連装発射管と同じ重量の4連装発射管を開発するという約束で(実際には重量オーバー)、4連装2基の搭載が決定した[16]。当初魚雷は九〇式魚雷[11]だったが、開戦前に九三式魚雷搭載に改造したといわれている[16]。魚雷本数は昭和18年時点で14本[12]または12本[注釈 2]となっている。何時の時点で(予備)魚雷が減らされたかは不明である[16]

初春型から搭載された次発装填装置も搭載され、そのため後部上構は後部マストと共に右舷に寄せられている[16]。また発射管への情報伝達は伝声管をやめ、電話が使われるようになった[16]

爆雷は大戦中に36個に増備したという[注釈 3]。「一般計画要領書」によると計画は九一式爆雷36個[11]、昭和18年の時点で九五式爆雷18個または10個になっている[12]

その他

レーダー1943年以降、前マストに22号電探を装備、その後13号電探も装備したものと思われる[16]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」[25]によると、時雨、五月雨は昭和19年後半の時点で前マストトップに13号電探を搭載した。

水中探信儀は1940年の時点で装備されているが竣工時からの装備かどうかは不明[16]。水中聴音機は開戦後の装備のようである[16]

同型艦

白露 [II](しらつゆ)[27]
竣工1936年8月20日(佐世保工廠[28] 戦没1944年6月15日[29]
時雨 [II](しぐれ)[27]
竣工1936年9月7日(浦賀船渠[28] 戦没1945年1月24日[29]
村雨 [II](むらさめ)[27]
竣工1937年1月7日(藤永田造船所[28] 戦没1943年3月5日[29]
夕立 [II](ゆうだち/ゆふだち)
竣工1937年1月7日(佐世保海軍工廠)[28] 戦没1942年11月13日[29]
春雨 [II](はるさめ)
竣工1937年8月26日(舞鶴工作部[28] 戦没1944年6月8日[29]
五月雨(さみだれ)[30]
竣工1937年1月29日(浦賀船渠)[28] 戦没1944年8月26日[29]
海風 [II](うみかぜ)[30]
竣工1937年5月31日(舞鶴工作部[30]/舞鶴海軍工廠)[28] 戦没1944年2月1日[29]
山風 [II](やまかぜ)[31]
竣工1937年6月30日(浦賀船渠)[28] 戦没1942年6月23日[29]
江風 [III](かわかぜ/かはかぜ)[31]
竣工1937年4月30日(藤永田造船所)[28] 戦没1943年8月6日[29]
涼風[32](すずかぜ)
竣工1937年8月31日(浦賀船渠)[28] 戦没1944年1月25日[29]

駆逐隊の変遷

参考文献

脚注

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