樅型駆逐艦
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| 樅型駆逐艦 | |
|---|---|
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栗 | |
| 基本情報 | |
| 種別 | 二等駆逐艦[1] |
| 命名基準 | 植物の名 |
| 運用者 |
|
| 同型艦 | 21隻[1](#同型艦を参照) |
| 前級 | 楢型駆逐艦 |
| 次級 | 若竹型駆逐艦 |
| 要目 (樅、計画) | |
| 基準排水量 | 公表値 770トン[2] |
| 常備排水量 | 850.00トン[3] |
| 全長 | 290 ft 0 in (88.39 m)[3] |
| 水線長 | 280 ft 0 in (85.34 m)[4] |
| 垂線間長 | 275 ft 0 in (83.82 m)[3] |
| 最大幅 | 26 ft 0 in (7.92 m)[3] または7.93m[5] |
| 深さ | 16 ft 3 in (4.95 m)[3] |
| 吃水 | 8 ft 0 in (2.44 m)[6] |
| ボイラー | ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基[7] |
| 主機 |
ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[5] 各艦の形式は#主機械を参照 |
| 推進 |
2軸 x 400rpm[7] 直径 8 ft 6 in (2.59 m)[7]、ピッチ3.378m[8] または直径2.565m、ピッチ3.353m[8] |
| 出力 | 21,500shp[3] |
| 速力 | 36ノット[3] |
| 航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット[3] |
| 燃料 |
重油250トン[3] 蔦以降 同240トン[3] |
| 乗員 |
計画乗員 107名[9] 竣工時定員 110名[10] |
| 兵装 |
45口径三年式12cm砲 単装3門[11] 三年式機砲 2挺[11] 53cm連装発射管 2基4門[12] 魚雷8本[12] |
| 搭載艇 | 20ft内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻[13] |
| トンは英トン | |
艦型
設計は峯風型一等駆逐艦と平行して行われ、わずかに先行していた[19]。峯風型の小型版という形で[20]、船体形状などが峯風型と似ている[19]。兵装は峯風型と比べて主砲が1門、魚雷発射管が1基(2門)少なく、また機関出力が小さくなって[21]計画速力36ノット(峯風型は39ノット)としている[3]。
桃型や楢型では凌波性が不十分で、本型は峯風型と同じ艦橋前にウェルデッキを設けた形になった[19]。主砲3門は全て上甲板より1段上にあり、波の高い場合でも使用可能となった[19]。また、二等駆逐艦で初めて53cm魚雷を搭載した[19]。このほか、浮流式連係機雷(一号機雷)の敷設能力も有していた[22]。後期建造艦では機銃や探照灯の装備位置が改正されている[22]。
3基のボイラーは全て重油専焼になった[19]。石炭燃焼艦では濃い煤煙によって発見される可能性が高くなり、重油専焼の方が夜戦などで有利だった[23]。タービンは二等駆逐艦で初めてオールギアードタービンを搭載した[19]。計画常備排水量は楢型と同じ850トン(英トン、以下同様)だったが、出力が21,500馬力(楢型は17,500馬力[6])となって計画速力は36ノット(楢型31.5ノット[6])に増大した[19]。
基本計画番号は「樅」など8隻がF37、「菊」など5隻がF37A、「蔦」など8隻がF37B[24]。
計画排水量は850トンだったが、実際には45トンほど超過していた[25]。(後期の艦ほど改正で排水量が増した、とする文献もある[18]。)排水量の増加は速力に影響があり[25]、例えば1920年(大正9年)3月、佐多岬沖で実施された楡の公試成績では排水量893トン、軸馬力23,165shpにおいて速力34.35ノットを記録している[26]。また、舵を切ったときに傾斜が大きく、復元力を増す必要もあった[27]。次型の若竹型(基本計画番号F37C[28])では排水量を900トンにするなど、これらの点が計画から盛り込まれることになった[29]。
主機械
タービン形式については、最初の8隻のうち「樅」を初めとする4隻はブラウン・カーチス式を搭載、「楡」を初めとする4隻はジョン・ブラウンとパーソンズの設計の両方を参考に、三菱が新たに設計した高圧衝動式、低圧反動式のタービンを搭載した[30]。この背景には、日本海軍はタービン開発に熱意を持っていたが、ブラウン・カーチス式の製造権を持っていた川崎造船所は自力開発には消極的だった[30]。そこで日本海軍は三菱にその図面を渡し、新設計のタービンが作られた[30]。ブラウン・カーチス式が無事故で好成績を収めたのに対し三菱設計のタービンは故障が多く、結局、続く「菊」を初めとする7隻にはブラウン・カーチス式が搭載された[30]。また、その後に続く本型最後の6隻にはヨーロッパのタービン・メーカー各社のものを搭載し、実艦での比較実験を行った[31]。浦賀船渠製造の2隻にはキャメル・レアード社のパーソンズ式反動タービンを、藤永田造船所製造の2隻にはジョン・ブラウン社のブラウン・カーチス式を、石川島造船所製造の2隻にはエッシャーウィス社のツエリー(チェリー)式をそれぞれ搭載した[31]。キャメル・レアード社(会社のあるイギリスは第一次世界大戦の最中だった)製のタービンは外観の仕上げは粗雑ながら内部の重要部品は精巧に作られてあり、実艦搭載の運転では良い成績を収めた[31]。一方エッシャーウィス社は初めての船舶用タービンであって事故が続出する一方、その対策を行うことで日本のタービン技術向上にもなった[31]。
結局各艦に搭載されたタービンの形式と製造会社は以下の様になった[32]。
運用
同型艦
解説は起工、進水、竣工日 - その後(カッコ内は沈没場所)。斜体は、太平洋戦争開戦時に駆逐艦籍にあった艦。
樅(もみ)
- 1918年(大正7年)12月23日横須賀海軍工廠で起工[33]、1919年(大正8年)6月10日午後3時15分進水[34]、1919年12月27日竣工[35] - 1932年4月1日除籍。1936年訓練射撃用標的。
榧(かや)
楡(にれ)
- 1919年9月5日呉海軍工廠で起工[37]、1919年12月22日午前10時進水[38]、1920年3月31日竣工[39] - 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、航海学校付属の練習船。1944年12月17日、楡 (橘型駆逐艦)との区別のため、第一泊浦(だいいちとまりうら)に改称。1945年7月11日、横須賀海兵団(横須賀突撃隊供用)所属の特攻母艦。戦後解体。
栗(くり)
- 1919年12月5日呉海軍工廠で起工[40]、1920年3月19日午前9時39分進水[41]、1920年4月30日竣工[42] - 掃海作業中の1945年10月8日釜山港で触雷沈没[22]。1945年10月25日除籍。
梨(なし)
竹(たけ)
- 1918年12月2日川崎造船所で起工[46]、1919年8月26日午前7時30分進水[44]、1919年12月25日竣工[47][注釈 1] - 1940年2月1日除籍。除籍後は舞鶴海兵団の練習船。1944年2月10日、機関学校附属の練習船。1948年解体、船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年、港の外港展開とともに取り除かれた。
柹(かき)[48]
- 1919年2月27日浦賀船渠で起工[2]、1919年10月20日午後2時30分進水[49]、1920年8月2日竣工[50] - 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、兵学校付属の練習船。1945年2月23日、柿 (橘型駆逐艦)との区別のため、大須(おおす)に改称。終戦直後の台風で座礁、解体。
栂(つが)
菊(きく)
- 1920年1月20日川崎造船所で起工[53]、1920年10月13日午前7時進水[54]、1920年12月10日竣工[53] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第31号哨戒艇に改称。1944年3月30日、航空機の攻撃により戦没(パラオ西水道)。
葵(あおい)
- 1920年4月1日川崎造船所で起工[53]、1920年11月9日午前7時進水[55]、1920年12月20日竣工[53] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第32号哨戒艇に改称。1941年12月22日、ウェーキ島上陸作戦で擱座、放棄。
萩(はぎ)
- 1920年2月28日浦賀船渠で起工[56]、1920年10月29日午後4時30分進水[57]、1921年4月20日竣工[58] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第33号哨戒艇に改称。1941年12月22日、ウェーキ島上陸作戦で擱座、放棄。1942年1月10日除籍。
薄(すすき)
- 1920年5月3日東京石川島造船所で起工[59]、1921年2月21日午後3時30分進水[60]、1921年5月25日竣工[53] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第34号哨戒艇に改称。1944年7月3日、トラック在泊中、空爆を受けて沈没[注釈 2]。
藤(ふじ)
- 1919年12月6日藤永田造船所で起工[61]、1920年11月27日午前8時30分進水[62]、1921年5月31日竣工[63] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第36号哨戒艇に改称。スラバヤで終戦。復員輸送中にインドネシア軍に奪取されたが後にオランダ軍が接収。
蔦(つた)

- 1920年10月16日川崎造船所で起工[53]、1921年5月9日午前7時30分進水[65]、1921年6月30日竣工[53] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第35号哨戒艇に改称。1942年9月2日、航空機の攻撃により戦没(ビコリア島北東)。
葦(あし)

- 1920年11月15日川崎造船所で起工[53]、1921年9月3日午前7時30分進水[67]、1921年10月29日竣工[68] - 1940年2月1日除籍。1927年の美保関事件において、軽巡洋艦那珂と衝突事故を起こしている。1940年10月15日、航海学校付属の練習船。1944年12月17日、葦 (橘型駆逐艦)との区別のため、第二泊浦(だいにとまりうら)に改称。1945年7月11日、横須賀海兵団(横須賀突撃隊供用)所属の特攻母艦となるが、後に東京湾第二海上堡塁に擱座。
菱(ひし)
- 1920年11月10日浦賀船渠で起工[53]、1921年5月30日午前10時30分進水[69]、1922年3月23日竣工[70] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更[22]。第37号哨戒艇に改称[22]。1942年1月23日、米駆逐艦4隻と交戦沈没(バリックパパン)。1942年4月10日除籍。
蓮(はす)
- 1921年3月2日浦賀船渠で起工[71]、1921年12月8日午前11時進水[72]、1922年7月31日竣工[73] - 青島で終戦。戦後解体。船体は福井県四箇浦港の防波堤に利用された、とされるが異説有[要出典]。詳細は同艦個別項目にて。
菫(すみれ)
- 1920年11月24日石川島造船所で起工[53]、1921年12月14日午後3時30分進水[74]、1923年3月31日竣工[53] - 1940年2月1日除籍。1940年11月15日、兵学校付属の練習船。1945年2月23日、菫 (橘型駆逐艦)との区別のため、三高(みたか)に改称。戦後解体。
蓬(よもぎ)
- 1921年2月26日石川島造船所で起工[53]、1922年3月14日進水[75][注釈 3]1922年8月19日竣工[76] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第38号哨戒艇に改称。1944年11月25日、米潜アトゥルの雷撃により戦没(バシー海峡)。
蕨(わらび)
- 1920年10月12日藤永田造船所で起工[77]、1921年9月28日午後5時30分進水[78]、1921年12月19日竣工[79] - 1927年8月24日、神通と衝突沈没(島根県美保ヶ関沖、美保関事件)。
蓼(たで)
