盛田稔

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盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者青森山田学園特別顧問、青森大学名誉教授。

青森県七戸町生まれ。県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、弘前高等学校文化乙類卒、1941年、東京帝国大学(現・東京大学経済学部卒業。

翌年より近衛歩兵第5連隊補充隊に入営、陸軍経理学校を経て主計将校となり、歩兵第31連隊に配属[1]1944年(昭和19年)に主計大尉に累進し、歩兵第131連隊(長:重広三馬大佐)本部高級主計となる。7月の動員下令後、八戸市に宿営し物資調達のため奔走した[2]。11月、派兵先が中支と決まり漢口に上陸[1]1945年3月、宝慶に新規編成された独立混成第86旅団(長:上野源吉少将)司令部に転じ、終戦を迎える[3]

復員後は農業をしていたが、1948年より七戸中学校青森県立七戸高等学校教諭となる。弘前大学野辺地分校講師、助教授。青森短期大学教授。北里大学獣医畜産学部教授、青森大学教授、1971年学長。1992年退任、名誉教授。県文化財保護協会会長、県文化振興会議会長、県史企画編集委員会会長。2006年、瑞宝中綬章受章[4][5]。2012年青森山田学園理事長[6]、のち学園長[7]。2017年からは同学園の特別顧問に就いた。

2019年6月10日、肺炎のため死去[8]。102歳没。

家系

盛田家は石田三成の遺児民部政治の子孫にあたる七戸大塚屋石田喜平治をその祖にするという。3代石田喜平治は近江国野田村の村井治助の弟だが、八戸大塚屋本店の近江国大溝の大塚屋主人の斡旋により七戸大塚屋の養子となり同家の急速な発展を成し遂げた。5代目喜右衛門の時盛田姓を名乗り、6代目盛田杢は家を2分し杢は給人の家柄を継ぎ、弟喜平治には商人の家柄を継いだ。盛田稔は杢の後裔である。盛田家は南部藩の役人や上北郡の書紀などを務める。11代の達三は盛田稔の岳父で早くから林業に心血を注ぎ、同家の一隅に盛田農民文化研究所を創設し広く一般に門戸を開放した[9]

また、母方の親戚には八戸市長の山内亮がいる[2]

著書

脚注

参考文献

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