盧導
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若くして儒学を修め、ことばと文章が美しく、談論を得意とした。天祐元年(904年)、進士に及第し、校書郎を初任とした。鄖郷県令として出向し、入朝して監察御史となった。唐が滅ぶと後梁に仕えて三度異動して職方員外郎となり、史館修撰をつとめた。河南県令として出向し、礼部郎中となった。右司郎中に転じ、侍御史・知御史台雑事を兼ねた。病のため免官され、漢水流域に閑居して久しかった。後唐の天成元年(926年)、もとの官のまま召還され、右諫議大夫に任じられた。長興4年(933年)、中書舎人となり、知礼部貢挙をつとめた[1][2]。
応順元年(934年)春、潞王李従珂が鳳翔府で起兵して洛陽に入ると、閔帝は衛州に逃れ、宰相の馮道や李愚は百官を天宮寺に集めて、李従珂を出迎えようとした。盧導が到着すると、馮道は盧導に李従珂即位の勧進の文章を起草するよう求めた。盧導は皇帝の廃立は曹太后の教令に従うべきで、馮道が率先することではないといって拒否した。この日、李従珂はやってこず、馮道らは上陽門外に留まって、再び盧導に勧進の文章を起草するよう求めたが、盧導はやはり聞き入れなかった[3][4]。清泰元年(同年)、礼部侍郎となった[5]。清泰2年(935年)、尚書右丞に転じた[6]。
後晋の天福3年(938年)、盧導は吏部侍郎に任じられた[7]。天福6年(941年)秋、開封府で死去した。享年は76[8][9]。
家族
- 祖父:盧伯卿(唐の殿中侍御史)
- 父:盧如晦(国子監丞)[1]