盧鈞
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盧継の子として生まれた。盧炅の孫にあたる。元和4年(809年)進士に及第し、さらに書判抜萃科に登第した。校書郎に任じられ、節度使の補佐役を歴任した。大和5年(831年)、左補闕に転じた。同僚の宋申錫と刑事事件を争って、そのため名を知られた。尚書郎を経て、常州刺史として出向した。大和9年(835年)、給事中に任じられた。開成元年(836年)、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使として出された[1][2]。
その年の冬、盧鈞は李従易に代わって広州刺史・御史大夫・嶺南節度使となった。任地は南海交易の利益で富を築いた者の多い土地柄であったが、盧鈞は清廉な統治をおこない、市舶司の事務を監軍に任せて、自らは利害に関与しなかった。いっぽう少数民族に対する政策は厳しく、漢人と少数民族との雑居による「風俗の乱れ」を正すため、漢人と少数民族のあいだの別居と婚姻の禁止を断行し、少数民族には田宅を立てられないようにした[3][2]。
会昌元年(841年)、盧鈞は襄州刺史・山南東道節度使に転じた。漢水の氾濫で襄州に被害が出たため、盧鈞は6000歩におよぶ堤防を築いた。会昌4年(844年)、劉稹が殺害されると、盧鈞は検校兵部尚書となり、潞州大都督府長史・昭義軍節度・沢潞邢洺磁観察等使を兼ねた。その年の冬、盧鈞は潞州の軍5000を率いて代北に駐屯した。盧鈞は入朝して、戸部侍郎・判度支に任じられ、戸部尚書に転じた[4][5]。
大中元年(847年)、検校尚書右僕射・汴州刺史・御史大夫・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使となり、検校司空を加えられた。大中4年(850年)、入朝して太子少師となり、位を上柱国に進め、范陽郡開国公に封じられた。大中6年(852年)、検校司空・太原尹・北都留守・河東節度使として出向した[4][6]。
大中9年(855年)、盧鈞は尚書左僕射となった。病を理由に仕事をせず、昔なじみと城南の別荘で遊んでいた。宰相の令狐綯に憎まれて、尚書左僕射を退任し、検校司空を加えられ、太子太師を代行した[7][8]。
大中11年(857年)9月、盧鈞は検校司徒・同平章事・興元尹・山南西道節度使となった。まもなく東都留守となった。咸通3年(862年)、再び宣武軍節度使とされたが、固辞した。太保として致仕した。のちに死去した。享年は87。太傅の位を追贈された。諡は元といった[9][10]。
