相里金

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相里 金(そうり きん、生年不詳 - 940年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は奉金。本貫太原府[1][2]

勇猛果敢な性格で、目下にへりくだることができた。景福元年(892年)、李克用が初めて五院の兵を置くと、相里金はその選抜に参与した。天祐8年(911年)、晋王李存勗に従って夾寨を攻め落とし、小校に任じられた。のちに柏郷や胡柳陂で梁軍と戦い、功績により黄甲軍指揮使に任じられた[1][2]

後唐同光元年(923年)、帳前軍を統べて洛陽を攻め落とし、忠勇拱衛功臣の号を賜り、検校刑部尚書となった。同光2年(924年)、右羽林軍都虞候から忻州刺史として出向した。部下の軍人を民政に関与させず、軍人の給与を優遇して家政を分担させただけであったので、州の民衆はこれに安堵し、統治の評判が良かった。応順元年(934年)、相里金は隴州防禦使となった。潞王李従珂鳳翔府で起兵すると、諸侯で呼応する者もなかったが、ひとり相里金は判官の薛文遇を派遣して軍事を謀議させた。清泰元年(同年)、末帝(李従珂)が即位すると、相里金は保義軍節度使に抜擢され、検校太保を加えられた。清泰3年(936年)夏、石敬瑭が太原府で起兵すると、相里金は末帝に河東四面行営歩軍都指揮使とされて討伐にあたった[1][2]

天福元年(936年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、相里金は建雄軍節度使に転じた。汴州に召還されると、諸衛上将軍となり、開府儀同三司を加えられ、検校太尉に進んだ。開国公の爵位を受け、上柱国の勲位に登った[1][2]。天福5年(940年)8月、在任のまま死去した[3]太師の位を追贈された[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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