的戸田宿禰
From Wikipedia, the free encyclopedia
系譜
記録
『日本書紀』巻第十によると、応神天皇16年に平群木菟宿禰(へぐり の つく の すくね)とともに加羅へ派遣された。その際に、
新羅の国境に臨んだところで、新羅王は恐れて罪に服し、弓月の人夫を率いて、襲津彦とともにかえってきた、という[5]。
巻第十一では、仁徳天皇12年(なお、この間、記録通りに時間が過ぎたとすると、上記の出来事から55年後となる)に、
誰も貫通させることのできなかった鉄の的に、唯一射通した盾人の勝れた力を、高麗の客人たちは、「共に起ちて拝朝(みかどおがみ)す」という。
翌日、盾人宿禰は功績を讃えられて、的戸田宿禰という名前を賜った。このことについて、本居宣長は『古事記伝』の中で、盾の的を射たのだから、戸田を「盾人」に改めたのではないか、という説をあげている。このとき、小泊瀬造(おはつせ の みやつこ)の祖先である宿禰臣も、賢遺臣(さかののこり の おみ)の名を賜っている[7]。
この5年後、戸田宿禰と賢遺臣は、新羅に派遣され、大和政権に貢ぎ物を献上しないことを問責した。新羅人は懼(かしこま)って(恐れ入って)調の絹1,460匹及び「種々雑物」(くさはいのもの)併せて八十艘(やそふな=船の数が多いこと)を献上した、という[8]。
考証
仁徳12年の記述は、史実のほどが疑わしいと池内宏は述べている。5世紀の高句麗は好太王・長寿王の治政で倭国とは対立関係にあり、高句麗の朝貢や上表文があったとは考えにくい、という[9]。
高句麗の朝貢記事は応神天皇28年9月にもあり、
「高麗(こま)の王、日本国(やまとのくに)に教(をし)ふ」
という上表文の無礼さに立腹した太子の菟道稚郎子(うぢ の わき の いらつこ)が破り捨てた、という記述がある[10]。 ただ「教」という言葉は広開土王碑文にも
というふうに用いられており、また戦争中に使節が訪れることがないとは言い切れない。いずれにしても、続く上述の、同じ戸田宿禰が関与する仁徳17年条の新羅派遣の記事と深くつながっていることは間違いないであろう[9][要出典]。