真下基行
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系図伝承の差異
源義経の居所 襲撃の伝承
『玉葉』の文治元年(1185年)の記述(京都の事件)として、小玉(児玉党)30騎ばかりが源義経の居所を襲撃したとある。他の軍記物には児玉党の一族が義経の居所を襲撃した記述はないが、旧家の伝書には、真下基行と塩谷五郎(塩谷氏祖の塩谷家遠の子息、維弘か)が、渋谷(土佐坊)昌俊に従い、義経の居所である堀川御所を夜襲とある(したがって、昌俊軍の83騎の内、30騎もが児玉党武士だったと考えられる)。児玉党の一族の中に、昌俊に従う者がいたと見られ、伝書には、討ち死にした昌俊の亡骸は、相談した結果、児玉郡の塩谷に埋められたとされる[2]。『吾妻鏡』における伝承(敵に捕まって斬首された)とは異なる。
金王丸の墓の伝承
児玉郡の塩谷村(現児玉町塩谷)の畑の中に金王丸(渋谷金王丸)の墓と伝わる古い石の五輪がある。『武蔵国児玉郡誌』の記述では、金王丸は塩谷重家の子となったとされている。金王丸は渋谷庄司重国の兄か、あるいは祖父などとも考えられている。
土佐坊昌俊と金王丸は同一人物とする説があり、金王丸は児玉郡の塩谷に来て没したとも伝えられている。上述の旧家の伝書と合わせて考えると、捕まったのは偽装(影武者)だったとも考えられる。
一族の構成
基行の兄は、行業(入西氏)、遠弘(小代氏祖)、有行(越生氏祖)の3人で、それぞれ父資行から領地を与えられ、新たに氏を称した。これらの氏族は当然の事ながら、児玉党の嫡流である庄氏=児玉氏の宗家とも同族である。基行の子息は、太郎弘忠、有弘、弘親がいる。
『武蔵七党系図』の伝承によれば、子息の一人である二郎弘忠は、上真下村(現児玉町上真下)に居住したとある。通称の伝承にも差異が見られ、別系図では五郎弘忠となっており、父子の伝承に混同が見られる。遵って、父基行が居館を築いた可能性もないわけではない。居館跡は確認されている。別の系図では、基行の三男四郎弘親(本来の通称は三郎が正しいと考えられる)は、賀美郡勅使河原村へ移住したとある(当村は丹党の支配下にある領域である)。
建久元年(1190年)、源頼朝入洛の際、後陣随兵の中に「真下太郎」の名が見え、基行の子息である弘忠を指すものと見られている(『吾妻鑑』の記述が正しければ、諸々の系図の通称の伝承は不正確と言う事になる)。嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経の入洛にも、真下右衛門三郎の名が随兵の1番目に見える(真下三郎は弘親に比定できる)。