真下飛泉
From Wikipedia, the free encyclopedia
1878年(明治11年)10月10日、京都府加佐郡河守町新町の貧しい農家の次男として生まれる。生家では農業の他、蝋燭製造や製紙業を営んでいたとされている。
1885年(明治18年)、河守学校初等科に入学〈翌年「小学校令」により尋常科に改名〉。河守尋常小学校を卒業後は、糸問屋に奉公し、その後実家の蝋燭製造に従事した。
1892年(明治25年)河守地方六ヵ町村組合立高等小学校3年に編入学。翌年10月、河西村立公庄尋常小学校へ在学のまま准教授として赴任。組合立高等小学校卒業後は、公庄校へ引き続き勤務した。1895年(明治28年)4月、京都府尋常師範学校に入学。
1897年(明治30年)、飛泉が20歳の時、『少年文集』の臨時増刊『秀才文叢』後編に『額の玉』が掲載される。その後、 21歳の時、『文庫』に『心の雲』が、『万朝報』懸賞小説欄に『苦楽』が掲載された。なお、後者は向武主義の学校当局で問題視され、飛泉は一週間の外出禁止処分を受けた。
1899年 (明治32年)、飛泉は京都師範学校を卒業し、京都市立有済尋常小学校の教訓となり、関西青年文学会(32年1月、浪華青年文学会を改称)に入会、創作を載せた。 [2]
1903年(明治36年)には、福田平蔵の六女、タカと結婚[2]、左京区東三本木丸太町上ル上ノ町に新居をさだめた。同年10月、京都府師範学校訓導となる。1904年(明治37年)5月、美子皇后の誕生日を祝う地久節に師範学校講堂で学芸会が行われ、受け持ちの児童に自作の『出征』を劇的構造で演じさせた。翌年6月28日、京都市内の五車桜書店から『小学校適用言文一致叙事唱歌 第一篇 出征』が出版された[2]。同年9月、シリーズ第三作として『戦友』を出版。
1910年(明治43年)3月31日、京都市立修道尋常小学校の訓導兼校長として赴任[3]。同年4月4日、下京区第二十八学区学務委員に任命。在任期間は1917年(大正6年)3月31日までの7年間。また、同年9月には、文部省より全国における小学校本科正教員免状を受領した。
1913年(大正2年)10月、『我校及校下』によって修道校における教育の現状を発表した。
1920年(大正9年)には、長年教育に従事した功績によって、文部大臣に表彰を受ける。また、京都府からも褒奨として書籍料を受け取った[4]。
1925年(大正14年)5月、下京区選挙区から市会議員として立候補し、478票の最高得点で当選した[5][6]。翌年、1926年(大正15年)10月25日、心臓病に喘息を併発し、京都市議のまま死去[1][6]。享年48歳。
