真崎氏

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真崎氏(まさきし)は、日本の氏族清和源氏佐竹氏の庶流。常陸国那珂郡村松村真崎(現在の茨城県那珂郡東海村村松)の真崎城を拠点とした。鎌倉時代より重臣として佐竹氏に仕え、特に戦国時代末期には侍大将として佐竹宗家の領国平定における軍事、および知行地の管理や領内の秩序維持(仕置)において重要な役割を担った[1][2]慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田藩(久保田藩)転封後は、家老職を務めた兵庫家をはじめ、藩政の実務を担う重臣として存続した。発祥した鎌倉時代から700年以上を経た現在でも、この真崎氏の血統は各地で脈々と受け継がれている。

常陸時代

鎌倉時代建長年間(あるいは弘安年間)、佐竹氏4代当主・佐竹義重の三男、岡田 義澄の子である真崎 義連(まさき よしつら、真崎次郎)が真崎城を築き、地名を取って真崎氏を称したのが始まりとされる[3][4]

室町時代から戦国時代にかけて、真崎氏は佐竹一族内での様々な抗争において、武将としての役割を果たしてきた。

  • 佐竹の乱(山入一揆): 佐竹宗家と庶流山入氏の対立において、文亀2年(1502年)の金砂山合戦の際、山入側として真崎 孫六入道が討死した記録が残る。
  • 部垂の乱: 天文9年(1540年)、佐竹宗家と宇留野義元との抗争において、佐竹宗家側の真崎 義直(兵庫介、駿河守)の弟の真崎 季直(彦四郎)が討死した。

その後、真崎氏は佐竹宗家へ忠勤した。天文6年(1537年)には、真崎 義直(兵庫介、駿河守)が佐竹義篤に従って陸奥国寺山の戦いで軍功を挙げた。元亀4年(1573年)には、当時の当主・真崎 義保(彦三郎、下総守)が、陸奥国赤坂の役において討死した。弱冠16歳の弟・兵庫助重宗(宣宗)は、それに怒り単騎敵に突進し、その首級を得た。この軍功により、主君であり佐竹氏18代当主・佐竹義重より「雲井亮(雲井介)」の称を授けられ、兄の家督を継承した。

領国統一と仕置の実務

真崎 兵庫助重宗は、佐竹氏の領国統一が進む中で、侍大将として軍事・行政の双方で重用された[1]。天正18年(1590年)、佐竹義宣水戸城江戸氏を追放し、常陸一国の平定を推し進める際、重宗は「仕置(占領後の再編および統治管理)」を任された。これに合わせ、当時佐竹氏に完全には服属していなかった鹿島・行方地域の勢力再編(いわゆる南方三十三館の仕置)においても、治安維持と権益の調整という困難な統治実務を遂行した。また、文禄・慶長の役では「船奉行」として佐竹軍全軍の兵站・輸送を司った[5]

秋田時代

慶長7年(1602年)、佐竹氏の秋田移封に際しては、当主・真崎兵庫助重宗が一族を率いて随行した。しかし、重宗は移封の翌年である慶長8年(1603年)に没し、嫡男の宣広(初名:彦六郎)が跡を継いだ。宣広は転封前の文禄4年(1595年)時点で、すでに那珂郡田谷(現在の水戸市田谷町)に800石の知行を有する実力者であった。

  • 大坂の陣: 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、重宗の跡を継いだ真崎 兵庫助宣広が参戦。先鋒を志願した際、主君・義宣より「旗本たる者は、軽率に勇を競うべきではない」と諭され、本陣で指揮にあたった逸話が残る[6]

秋田藩における真崎氏は、藩の公式名簿である『秋田武鑑』等において、主に以下の真崎五家としてその存在が認められており、職能や居住地に応じて藩政を支えた。秋田藩の家格は『廻座』である。

兵庫家(宗家)
1,300石。久保田城下で最も高格な家臣の居住域である二の丸上中城に屋敷を構え、代々家老職を務めた。幕末の家老・真崎 兵庫睦貴(宗翰)は、文政12年に家督を継ぎ、執政(家老)として戊辰戦争の難局にあたった。慶応4年(1868年)1月には京都にのぼり、参与役所より「徳川慶喜追討沙汰書」を親授された。奥羽列藩同盟との間で揺れる藩論を勤王に導き、新政府軍との折衝や軍備の強化、藩内統制など、藩の存亡に関わる外交・軍事の両面で中核を担った[7]
五郎左衛門家
400石。兵庫介宣広の次男・広房を祖とする分家。
豊後家
100石。給人。真崎 義直(兵庫介、駿河守)の弟の真崎 季直(彦四郎)を祖とする。藩政を支えた実務派の分家。
右馬助家
80石。給人。軍事や知行地管理を担った系統。
長右衛門家
190石。地頭(給人)、秋田郡奉行。南秋田地域の開発と防衛を担った系統。
長右衛門家と真崎堰
分流の長右衛門家は、五城目町井川町潟上市の三町村にまたがる広大な水田を潤す「真崎堰(まさきぜき)」の開削を主導した。これは真崎 長右衛門(季富)・世継ぎの正親・政綱の三代にわたる功績である。
仙北の一族
仙北市周辺には、真崎氏が給人として配置された。この地域は治安維持や関所の管理が必要な軍事上の要衝であり、一族は地域開発と藩境の防衛任務にあたった。

城郭

  • 真崎城(常陸): 茨城県東海村村松(別称:天神山城)。台地端部に位置し、大規模な堀切を備えた堅固な要害であった。台地下には船着場(館岸)跡があり、知行地の管理と水運の拠点となっていた[8]
  • 真崎城(秋田): 秋田県仙北市田沢湖卒田(字:真崎)。秋田移封後、藩境の防備と治安維持を目的として築かれた。遺構として大規模な土塁空堀が良好に残っており、境界の警備と地域開発の拠点となった。

系譜

真崎氏の系譜は真崎 義連を祖とし、鎌倉時代から幕末に至るまで宗家および各分家が武家として存続した。以下は資料に基づく詳細な系譜である[4]

【真崎氏 詳細系図】(※は討死)

  • 佐竹氏4代・佐竹義重
    • 岡田 義澄
      • 1. 真崎 義連(始祖、真崎次郎)
        • 2. 義久(蔵人大夫)
          • 3. 義忠(刑部大輔)
            • 4. 義景(左京亮、※1335年武蔵国鶴見にて討死)
              • 5. 資義(右馬助)
                • 6. 義基(右馬助)
                  • 7. 義勝(駿河守、中興の祖)
                    • 8. 義永(兵庫助、法名:常心)
                      • 9. 義英(兵庫助、法名:常央)
                        • 10. 義兼(下総守)
                          • 11. 義直(兵庫助、駿河守、1537年陸奥国寺山合戦に功)
                            • 12. 義保(彦三郎、1573年陸奥国赤坂の役において討死)
                            • 12. 重宗(宣宗/兵庫助、雲井介、1603年没)
                              • 13. 宣広(兵庫助、駿河守、秋田藩家老、大坂の陣参戦)
                              • │ ├ 宣昌(兵庫家、代々家老)…… 睦貴(幕末家老)
                              • │ └ 広房(五郎左衛門、分家)
                              • 季富(長右衛門、真崎堰開削始祖)
                              • └ 正親(長右衛門、真崎堰完成)

家紋

真崎氏の家紋は、系統によって明確に使い分けられている。

主要な家紋

  • 三頭丁子巴(みつがしらちょうじどもえ)
秋田藩の重臣層(兵庫家・長右衛門家など)が、3代藩主佐竹義処より賜ったとして使用する主要な紋。
  • 亀甲に木瓜(きっこうにもっこう)
仙北地方に土着した一族が使用する家紋。独自の系統を示すものである。
  • 三つ盛り左三つ巴(みつもりひだりみつどもえ)
常陸時代からの伝統を継ぐ紋。茨城県常陸大宮市の一族などに伝わる。
  • 丸に違い鷹の羽・五つ瓜に左三つ巴・丸に釘貫五三の桐
分家の家系で用いられる。

家紋画像

他系統との区別(九州の真崎氏について)

脚注

参考文献

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