関西学院大学に在籍していた1925年5月、マニラで開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表メンバーに選出された。この大会で17日に初戦、フィリピン代表との試合にフル出場したが、0-4で負けた[1]。20日の中華民国代表との試合にも途中出場したが、0-2で敗れた[2]。
関西学院を卒業後、海運業界で活躍。昭和27年にニュージーランド航路開拓、昭和32年に北米太平洋航路、昭和36年にセイロン航路、ブノンペン航路を開拓。日本ニュージーランド協会理事、日豪協会理事、日本船主協会理事等を歴任。昭和44年藍綬褒章。