神田清雄
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大阪府出身[1]。大阪府明星商業学校に在学[2]し、本科1年時(16歳)の1915年から同校のサッカー部に所属。主将であった1917年度は第1回日本フートボール優勝大会(1918年1月開催)にも出場してチームの準優勝に貢献した[3]。
1918年に明星商業学校を卒業して同志社大学に進学しサッカー部に所属[4]。また、神田は八田卯一郎らの明星商業学校OBと共に1921年に大阪サッカー倶楽部を創設し、同チームに所属した[3][5]。
1923年5月に大阪で開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、初出場となった5月23日のフィリピン代表戦など2試合に出場した[5]。
1925年5月に開催された第7回極東選手権競技大会の日本代表にも選出され2試合に出場した[6]。
大学卒業後は京阪電気鉄道に入社し、1942年に関西配電に転職。1951年に関西電力監事、1952年に大阪陶業専務、1957年に関電産業取締役となった[1]。