寛文6年(1666年)に京都に出て、野間三竹に医学を、松永尺五から儒学を学び修める。寛文9年(1669年)には藩主上杉綱憲の近習兼藩医となり、石高70石となる。元禄3年(1690年)には綱憲の儒者兼藩医となり、石高100石となる。
綱憲より上杉謙信及び上杉景勝の年譜編集を命じられ、元禄8年(1695年)に「謙信公年譜」を、同16年(1703年)には「景勝公年譜」を完成させて、その功績により100石加増され、石高200石となる。
三印は自宅に聖堂を設けて釈奠を行っていたが、綱憲はこれを改築して元禄10年(1697年)に「感麟殿」と命名。さらに講堂を設けて藩士の学問所として、三印に主宰させた。この学問所はのちに上杉治憲が建設させた藩校興譲館の前身となる。
綱憲が隠居して上杉吉憲が藩主となると、宝永元年(1704年)には吉憲の側居となったが、その翌年に死去した。なお、聖堂祭主及び藩士子弟教育は片山元僑が継承した。