矢板城
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源姓塩谷氏の重臣矢板重郎盛兼によって城は築かれ、その後、代々矢板氏の居館になったものと思われるが、その歴史は、ほとんど伝承が無く定かではない。但し、塩谷惟純が塩谷郡復帰後に居城としたという伝承[1]や、『川崎城跡・御前原城跡発掘調査報告書[2]』によれば、堀江塩谷氏の3代目にあたる塩谷惟頼が居城したという伝承もある。
塩谷氏の居城である川崎城の北の守りの支城として機能しており、平城ではあるが、やや高台に城が築かれていた。南側の一段低い土地に広がる湿地帯と、城の東を流れる人工の用水路である富田堀を天然の要害とし、北に土塁を築いて防御を固めた城で、当地には権現山と呼ばれる古墳もあり、そこは物見台として使用されていた。矢板城の廃城後、当地は「たたり山」と呼ばれ、城の土塁などがそのまま残されていたが、明治時代に入り、学校の建設など開発によって遺構が徐々に破壊され、土塁の土も矢板駅の建設や近くの窪地の埋め立てに使われて破壊され、現在は、その遺構のほとんどを失っている。ただ、当地は今も高台になっており、それが城の面影を残している。
矢板村合戦
廃城の時期
廃城の時期については、矢板村一帯が、塩谷氏の支配から岡本氏の支配に変わった天正18年(1590年)に廃城になったか、あるいは、その後も岡本氏の別邸として利用され、岡本氏が改易された正保元年(1644年)9月19日のいずれかと考えられているが定かではない。
