矢橋龍太郎

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生誕 (1926-09-18) 1926年9月18日
日本の旗 日本
死没 (2001-07-07) 2001年7月7日(74歳没)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
やばし りゅうたろう

矢橋 龍太郎
生誕 (1926-09-18) 1926年9月18日
日本の旗 日本
死没 (2001-07-07) 2001年7月7日(74歳没)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 実業家
活動期間 20世紀
活動拠点 岐阜県
美濃赤坂
肩書き 大垣市功労者
配偶者 茅子(旧姓・中埜
子供 矢橋龍宜[1]
矢橋龍吉(父)
原際(母、岐阜の原松蔭の三女)
親戚 矢橋次郎(叔父)
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矢橋 龍太郎(やばし りゅうたろう、1926年大正15年)9月18日[2] - 2001年平成13年)7月7日[2])は、日本実業家矢橋工業会長、矢橋林業社長等を務めた矢橋コンツェルン総帥。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][3][4][5]・本家・当主。大垣市功労章受章者。

1926年赤坂銀行常務の矢橋龍吉と際(岐阜、原松蔭の三女)の長男として生まれる[4]。妻は、愛知県半田市ミツカン酢創業家・中埜家の6代目又左衛門(中埜又左衛門」を参照)の二女 ・茅子(1929年生)[3][6]

矢橋工業[7]入社後、同取締役、同副社長を経て、1953年矢橋林業社長、1961年三星礦業社長、1973年矢橋工業社長、1979年矢橋工業会長に就任する[4]

大垣市の教育の振興に貢献[8]。1985年大垣市功労章受章[9]

金生山」に関する著作がある(下記「著書」を参照)。

人物

龍太郎は、陶芸家の荒川豊蔵との関係を通じて懇意になったとされる白洲正子を、1986年5月に、「矢橋家の牡丹園」に招待。正子は、龍太郎の生き方に関心をもち、その年の暮れにも寒牡丹を見に再び矢橋家を訪れている。誰もいない園内に伊吹おろしにさらされた寒牡丹が寒さに抵抗して見事に咲いている。「・・・ほんとうの美しさは、寒さに耐えて咲く寒牡丹にあることを、私は身にしみて知ったように思う」と。[10]

著作

家系図

矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇源融紫式部源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][4][5][11][12][13]

遠縁[17]所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲井上馨を治療した医師幕末の志士高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙

外部リンク

注釈

出典

関連事項

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