矢田事件
部落解放同盟による教員らに対する襲撃拉致・謝罪強要事件、「糾弾会」という名で10時間にわたった暴行監禁事件、その後の裁判に対する総称
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概要
1969年、大阪市阿倍野区の中学校に教諭として勤務する木下浄が、大阪市教職員組合の役員選挙に立候補した際の挨拶状、ならびに木下の後援者たちによる推薦状を、解放同盟矢田支部(大阪市東住吉区)が「差別文書である」として糾弾を決定。同教諭と関係者に糾弾を行った。これに対して教諭らは、解放同盟役員らを逮捕監禁・強要未遂罪で告訴。解放同盟側は「糾弾権」の存在を主張し争った。
1審の大阪地方裁判所は「(糾弾権は)社会的に認められて然るべきもの」として無罪判決を下し、検察側が控訴した。2審の大阪高等裁判所は「監禁行為は限度を超えており処罰に値する」と逆転有罪判決を下した。最高裁判所は2審判決を支持し、解放同盟側被告らの有罪が確定した。
事件現場の位置
経緯
事件の背景
部落解放同盟による説明
1971年に部落解放同盟の立場から『部落解放同盟・教宣シリーズNo3「矢田教育差別事件」とは何か』を執筆した師岡佑行は、本事件の背景を次のようにまとめている[2]、
なお本節は、中立的な第三者の記述ではなく、事件当時に部落解放同盟の教宣パンフレットを書いていた当事者による分析であることを明記しておく。ただし、以下の事実関係について、共産党側からの反論は一切なされていない。
1960年代後半、大阪市内では被差別部落のある公立学校を忌避し、本来の学区内居住者でない者が架空の住民登録を使い、天王寺中学校などの「名門」公立学校へ通学させる「越境入学」について、解放同盟が「部落差別の現れである」として問題視し、行政側も解放同盟の指摘を受けて解消に乗り出し、教育行政上の大きな問題となっていた。
行政による調査の結果、学校によっては、現生徒数の半数近くが本来の学区内の学校への転校が必要となるケースも明らかとなり[1]、それに見合う教職員の人事異動も必至の情勢となった。このため教師の間には戸惑いや、問題提起した解放同盟、さらには解放同盟と協調して越境入学解消に取り組み始めた行政当局や教育委員会、教職員組合執行部への反発も生まれた(教師の中には、自身の子息を越境通学させている例も多く[1]、また教師の名門校での勤務は、出世へのステップや、大阪市の教育界で当時取り沙汰されていたリベートやアルバイトなどの「教員利権」獲得に極めて有利な条件だった[1]。当時の市教組は、組合員に広く蔓延していた「リベート」「プレゼント」「アルバイト」の「三ト追放運動」を方針としていたが、その効果は上がっていなかった)。大阪市教組内の日本共産党フラクションに属する労組活動家は、これを勢力拡大の好機ととらえ、教組が越境問題に取り組むことをサボタージュするよう活動を活発化させ、実際に市教組が定数異動の具体案を提示する執行部提案を中央委員会で否決させるなどの成果を挙げていた[1]。
「木下挨拶状」にある「同和のこと」などは、このような越境入学への対処のサボタージュを正当化する文言だと受け取れるものだった。
日本共産党による説明
日本共産党衆議院議員の三谷秀治は、全解連の生みの親の一人である和島為太郎の伝記の中で、当時、教職員組合や教育委員会が取り組んでいた越境入学解消問題には一切触れないまま、日本共産党地区委員長の台詞を借り、矢田事件の背景を次のように記している。
この記述から、共産党側は、初めからこの問題を教育問題ではなく、党派的な問題として捉え、解放同盟や教職員組合内の「反党分子」や「反共幹部」への政治的な対抗として位置付けていたことが伺える。
木下挨拶状・木下推薦状
1969年3月13日、大阪市教職員組合東南支部書記次長選挙において、候補者である木下浄(大阪市立阪南中学校教諭、日本共産党員)が、下記の立候補挨拶状(木下挨拶状)を提出した。
「組合員のみなさん①労働時間は守られていますか自宅研修のため午後四時頃に学校を出ることができますか。仕事においまくられて勤務時間外の仕事を押しつけられていませんか。進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか。またどうしてもやりたい仕事もやめなければならないのでしょうか。②教育の正常化に名をかりたしめつけや管理がありませんか。越境・補習・同和など、どれをとりあげてもきわめて大事なことですが、それにも名をかりた転勤・過員の問題や特設訪問や、研究会や、授業でのしめつけがみられて職場はますます苦しくなります。新指導要領においても同様です。『どんなよいことでも、お上(行政)からきめられたことはダメだ。自ら要求し、自らかちとったものが身になり肉になる』ことをひしひしと思い知らされます」[4][5][注釈 1]
同じ頃、矢田中学校教諭の岡野寛二(東南支部副支部長)や、加美中学校教諭の玉石藤四郎(東南支部加美中学分会長)たち13名の組合員は、木下浄たちへの推薦状を作成し、同支部組合員に郵送した(木下推薦状)。その内容はおおむね次の通りであった。
「私たちは、組合に対していろいろな期待を持っています。最も民主的に運営されるのが組合であると思っているのに現実的には、現場の組合員の要求がくみあげられなかったり、組合員の要求にまでなっていないものを、ただよいことだからというだけの理由で、よいかどうか討議もされず、下部討議されないまま一方的に押しつけられたりして、現状ではよく混乱がおこります。こういう弱さを克服するため役員選挙を大切にしましょう。そういう意味から東南支部役員選挙で、私たちは自信をもって、次の候補者を推せんします。(以下、東南支部長、書記長、書記次長の立候補者の氏名。)教育者として組合員としてすぐれた活動家です。誠実な現場の活動家です。組合員の立場で考え行動する活動家です」[4]
この挨拶状や推薦状を1969年3月16日頃に入手した解同矢田支部の戸田政義(同支部長)、内山隆(書記次長)、村越末男(執行委員)らは、「差別者木下一派を糾弾する」と題する解同矢田支部名義の書面を作成した。その内容は
「あいさつ状は部落差別を宣伝し、部落解放運動に反対し、教師の古い意識を同和教育に反対する基盤として結集することを訴えたのである。推せん状は『ただよいことだけというだけの理由で』として同和教育を中傷し、その実践に水をさそうというのである。あいさつ状と併せてよめばその意図は明らかだろう。木下氏は『進学のことや、同和のことでどうしても遅くなること、教育こん談会などで、遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか』というのである。教師の苦しみ、困難さの原因が進学のことや同和のことにすりかえられているのである。具体的には部落解放運動に教師の苦しみの根源があるという恐るべき結論になっているのである。これは人民解放の闘いに水をさし、非難中傷し分裂させ、真の敵を不明にし、差別を温存させる、正に差別者以外の何者でもあるまい。われわれはこうした差別を許せない。この差別の思想と煽動を断固糾弾する」[7]
と非難するものであった。解同矢田支部は、木下が越境入学問題に取り組まないまま「教員利権」を保持し続けようとする姿勢を明らかにしたものと解釈し、挨拶状を差別文書とみなして糾弾会の開催を決定する。大阪市教組執行部も、解放同盟や田染の指摘を全面的に正しいものと認めた。
そしてその背景には、木下教諭が日本共産党員であることや、当時先鋭化しつつあった日本共産党と解放同盟の対立関係があった。
解放同盟矢田支部は3月18日、木下教諭および同僚である推薦人の2人を地区集会所に呼び出して糾弾を行う。その席上「頭をはり倒したいくらいや!」「竹槍でブスッとやるところや」「お前、それでも教師か、頭悪いな」「認めへんのやったら、今晩帰したらんぞ!」などと指弾した。市教組執行委員会や大阪市教委は解放同盟に同調した。また木下らもいったんは自らの挨拶状を差別文書と認めた。
木下らはのちに態度を翻すが、この変転について「みとめれば糾弾からのがれられると思って[8]」一旦はこれを差別文書とする見解に同意したと弁明している。
また、解放同盟内の共産党員である幹部の大半も、一旦は木下挨拶状を差別文書と認めていた。
木下らは、一回、解放同盟が開催する糾弾会に出席し、そこで事態を落着させることでいったんは収束する方向が決まった[9]。
これを一転させるのは、共産党大阪府委員会による「指導」が入ってからのことである。
木下挨拶状への糾弾について、後年、全解連の中西義雄は、一旦は自分たちも、差別文書だと認めていた事実関係には触れないまま、以下のように分析している。
解放同盟による糾弾
木下らが差別を認める方向でまとまりつつあったかに見えた事態は、日本共産党大阪府委員会が組織的な指導に乗り出したことで一転した。大阪府委員会は、矢田支部の指摘に同意した木下らを、党員にあるまじき態度として厳しく叱責、この指導を受けた木下らは、1名[誰?]を除き差別文書ではないと態度を翻した。
再度の糾弾会への出席を約束しながら、当日や直前になって欠席を通告するという対応を取り続けた木下とその推薦者たち15名に、矢田支部員らは業を煮やし、4月9日午前10時50分頃[11]大阪市立矢田同和地区解放会館(現・矢田人権文化センター)に木下らを拉致監禁し、最盛時では約250名に及ぶ多数の面前において[12]、深夜まで十数時間に及ぶ糾弾を行った。この時、拉致監禁の現場に立ち会った解放同盟員の一人に、後に衆議院議員となる上田卓三がおり、上田は「自己批判しない者に対しては、府連の立場で矢田支部とともに糾弾を続けて行く、こういう差別教師には首切りを市教委に要求する」と発言している[13]。1969年4月19日には上田も逮捕監禁罪・強要未遂罪で刑事告訴されたものの、不起訴となっている[14]。当時の被害教師の一人である玉石藤四郎(筆名・野々山志郎)は、この時の体験について
「解同から「差別者」のレッテルを張られた私は、勤務中の学校から力ずくで自動車におしこめられ、彼らが自由に使っていた市民館に拉致連行、その末に「糾弾集会」なる群衆のなかに立たされ、私と同じく暴力で連行されていた矢田中学の教師二人とともに屈伏を迫られました」[5]
と回想している。また、この時の解放同盟の脅迫文言は
「高校へ入学したが、英語の成績が悪くて留年となった子供がおる。英語の教師のお前の責任だ」[15]
「今まで、解同が差別やいうて差別やなかったものはない。お前ら白切るんやったらどこまでも糾弾する」[16]
「小学校のとき、わしは行儀が悪いということで、教師から18回も投げられた。そのためあほうになったんや。それは教師の責任や。その教師の仲間がこいつや」[17]
「もの言え、差別者。あほんだら」[15]
「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」[20]
「社会的に抹殺してやる」
「こいつら、なんぼ言うても口をききやがらん。お前ら言うようにしてやろうか。お前らの嫁はんや子供呼んで来たら口開くやろ、こいつらかて人間やから、女房可愛いで言いよる」[21]
というものであったことが、のちの裁判で大阪地裁に認定されている[22]。
椅子に座っていた被糾弾者が泉海らに「立て」と言われると、年配者から「座りなさい」と言われ、その言葉に従って座っていると、泉海らに「何じゃ、お前ら座って立て」「こら差別者、立て」などと怒鳴られて立たされた[23]。それでも立たずにいる被糾弾者に対しては、泉海らが「こら立たんかい、何しとるんじゃ」と椅子を蹴って無理やり起立させた[23]。こうして被糾弾者が立ったままでいると、今度は解放同盟員が「なんじゃ、われ、座れ言うてるのに座らんのか」と怒鳴りつけて殴りかかろうとした[23]。すると泉海が制止し、「殴ったらあかんぞ、殴るのはおれだけや、おれは1万円札をおでこにはったら検察庁公認や[注釈 2]」と発言した[23]。
被糾弾者たちが解放されたのは、翌4月10日の午前2時40分頃のことであった[24]。
被害者による刑事告訴ならびに民事提訴
1969年4月19日、金井清・岡野寛二・玉石藤四郎の3教諭が、解同矢田支部長ならびに同書記長ら4人(泉海節一・戸田政義・西岡智・上田卓三)[25]を逮捕監禁・強要未遂罪で刑事告訴し(矢田刑事事件)[26]。日本共産党は告訴とともに、組織をあげて解放同盟を「暴力集団」と非難する文書の配布をはじめ[1]、解放同盟との敵対は決定的なものになる。5月6日から5月11日にかけて、4回にわたり、木下・金井・玉石の自宅付近に部落解放同盟の署名入りで「部落民を暴力団視する差別教師◯◯を糾弾する」「差別共産党員◯◯を糾弾する」といったステッカーが貼りめぐらされた[27]。
1970年6月17日、大阪地方検察庁がこのうち2名(泉海節一・戸田政義)を監禁罪で起訴。1971年2月10日、大阪地裁で公判が始まった。大阪地裁の傍聴席を埋めつくした部落解放同盟からの動員部隊は、被害者の証言に対して「差別者、嘘つけ!」などの野次と怒号を飛ばしたが、判事も訴訟指揮をとらず、検事も抗議せず、法廷は無法地帯と化したと伝えられる[28]。
この後、挨拶状を差別文書と位置づけていた大阪市教育委員会は、再三の教委の指導を拒み続けた木下たち11名の教員を左遷し、強制研修を命令。1973年7月17日、木下たち8名はこの処分の取消と損害賠償を求めて大阪市を提訴した(矢田民事事件)。
部落解放同盟の組織分裂
部落解放同盟の内部にもこの木下挨拶状を差別と認めず、同盟中央を批判する同盟員(そのほとんどは、共産党員またはその同調者)が多数現れた。同盟中央はこれらの同盟員に対して除名、無期限権利停止などの処分を多数発した[29]。幹部を失った支部に関しては、再建を図った。
まず、大阪府連は1969年6月29日の大会で堺市、東大阪市蛇草支部らの代議員権を剥奪。ついで両支部長を除名した[29]。1969年9月には、府連は堺支部の19名の支部執行委員の除名を強行[29]。10月には蛇草支部に対しても幹部4名を統制処分にかけ、さらに年末にかけて堺市、東大阪市蛇草、羽曳野市、箕面市の4支部を組織排除[29]。東大阪市荒本、高槻市、富田林市などの支部活動家の除名をおこない、約1000名の同盟員が組織から排除された[29]。
このことが契機となり、のちに日本共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)が結成されるに至った。
刑事判決
| 年 | 月日 | 事柄 |
|---|---|---|
| 1969年 | 4月9日-4月10日 | 事件発生。 |
| 4月19日 | 被害者の教員たちが解同矢田支部長らを刑事告訴。 | |
| 5月6日-5月11日 | 4回にわたり、告訴人の自宅付近に解同の署名入りで 嫌がらせのステッカーが貼られる。 | |
| 1975年 | 6月3日 | 大阪地裁で無罪判決。 |
| 1981年 | 3月10日 | 大阪高裁で懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決。 |
| 1982年 | 3月2日 | 最高裁が上告棄却。有罪判決が確定。 |
部落解放同盟側が本件に関する「被告人」である。
1975年6月3日、大阪地方裁判所(裁判長松井薫)は木下挨拶状を部落差別解消を阻害しかねない文書と認定、限度を超えない限り、被差別者による糾弾[30]は社会的に認められるべきもので、「被告人らの行為には、いささか行き過ぎではないかと認められる点がないではなく、今後の自重に期待するものがある」[31]としつつ、木下らの態度にも原因があるとして、支部長らに無罪を言い渡した。これに対し、同年6月11日、大阪地検が控訴。
1976年9月28日、大阪高裁で控訴審が開始(弁護人・山上益朗、松本健男[32])。1980年2月12日、被告人の1人である書記長泉海節一が病没。1981年3月10日、大阪高等裁判所(裁判長中武靖夫)は一審判決同様、木下挨拶状を部落差別を助長しかねない文書と認定、差別を受けた際、部落民が抗議行動を行うことは正当で、かなりの厳しさを帯有することもあり得ると判断しながらも、一連の被告人らの行為には行き過ぎがあり、
「その他原審及び当審において取調べられた証拠を仔細に検討しても被告人が本件行為に出ることもやむを得なかったもので罪責を阻却するのが相当と認めるに足る資料は見当らない」[33]
として支部長に懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決を言い渡した。同年6月18日、弁護団が最高裁に上告。
1982年3月2日、最高裁判所(裁判長伊藤正己)が上告を棄却(弁護人・山上益朗、松本健男、桜井健雄、上野勝、中北龍太郎[12])。これによって被告人らの有罪が確定した。
民事判決
| 年 | 月日 | 事柄 |
|---|---|---|
| 1969年 | 4月9日-4月10日 | 事件発生。 |
| 1973年 | 7月17日 | 被害者の教員たちが大阪市を民事提訴。 |
| 1979年 | 10月30日 | 大阪地裁で大阪市に1140万円の損害賠償命令。 |
| 1980年 | 12月16日 | 大阪高裁で控訴棄却。 |
| 1986年 | 10月16日 | 最高裁が上告棄却。大阪市の敗訴が確定。 |
木下教諭らが「原告」、部落解放同盟大阪府連の糾弾・確認に加担した、行政「大阪市」側が「被告」である。
1979年10月30日、大阪地方裁判所で原告勝訴。大阪地裁は、木下挨拶状を「労働条件の改善を訴えるもので、差別性はない」と認定。被告大阪市は合計1,140万円の損害賠償の支払を命じられる。
行政の対応
法務省は1989年8月4日、法務省権管第280号通達において「糾弾会は同和問題の啓発に適さない」と、解放同盟の「糾弾権」を否定した。