育英高では1年下の菊村徳用とともに投の二本柱として活躍するが、甲子園には出場できなかった。卒業後は大東文化大学に進学。当時の首都大学リーグは東海大、日体大の二強時代であり、優勝には届かず1976年秋季リーグの3位が最高成績であった。
1977年ドラフト1位で日本ハムファイターズに入団[1]。1978年9月10日には阪急ブレーブスを相手に初登板初先発を果たすが、ウイリアムスに本塁打を喫するなど打ち込まれ4回途中で降板。この映像は「熱闘!日本シリーズ1978 ヤクルト - 阪急」で見ることができる。これ以降は一軍での登板機会がなく、1982年限りで現役引退[1]。引退後は打撃投手を務めた。
アンダースローからのストレートとシンカーが武器であった。