石原省三
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満洲安東県(現在の中国遼寧省丹東市東港市)に生まれ育つ[1]。南満洲鉄道(満鉄)がスケートを奨励したこともあり[2]、満洲は大日本帝国の勢力圏において「スケート王国」と評され、スケート競技では内地を圧倒していた[3][2][注釈 1]。スピードスケートにおいては、満鉄の仲介でハルピン在住ロシア人スケーター、ルシチャイがコーチとして指導にあたっていた[3][2]。1931年には満鉄の岡部平太監督のもと石原らがヘルシンキの世界選手権大会に出場している[3]。
早稲田大学に進学[2][3]。 1932年のレークプラシッドオリンピックでは500m、1500m、5000m、10000mの4種目に出場したが、いずれも予選で敗退した。
1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックでは500mで4位となった。スケート競技では日本初のオリンピック入賞であり、1984年のサラエボオリンピックにて北沢欣浩が500mで銀メダルを獲得するまでオリンピックにおける日本スピードスケート史上最高位であった。また1500mでは19位だった。
青森県八戸の日東化学工業工場での勤務が長く、「八戸は第二の故郷」と称している[1]。青森県のスケート普及・発展に尽くし[4]、指導者として浅坂武次・佐々木邦子らを育てた[1]。1952年オスロオリンピックではスケート日本選手団監督を務めた[5]。