石川盛行
From Wikipedia, the free encyclopedia
父は山城国宇治の茶師である上林家の家臣・石川藤太夫保之(元は奥氏、入道して真西)、母は近衛家の家司であり近衛基熙の娘・近衛熙子の乳母を務めた下村頼母介某娘。奥氏は清和源氏満季流とされる[1]。
母は近衛煕子の乳母であった。煕子は延宝7年(1679年)6月に甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)と縁組し、12月1日に甲府家の上屋敷である桜田御殿に入った。盛行と母は江戸に下向した煕子に同行し、桜田御殿で小姓組を勤め、後に奏者番へと転じた。
宝永元年(1704年)12月には、綱豊が名を「家宣」と改め、叔父の第5代将軍・徳川綱吉の世子として江戸城西の丸へ迎えられると、煕子は御簾中として西の丸の大奥へ入った。盛行はこれに相伴し、12月12日には桐間番の組頭となり、蔵米500俵を賜り、同月22日には布衣を着することを許された。同3年(1706年)8月3日には武蔵国多摩郡・相模国鎌倉郡・高座郡に合計500石の知行地を賜った。翌年(1707年)7月13日には西の丸の桐問番の頭となり、従五位下・摂津守に叙任された。後には江戸城の本丸に勤務した。同7年(1710年)には母が没したことで、閏8月2日に蔵米と月俸を知行地に改めて、高座郡内の200石を新たに加えられた。正徳3年(1713年)5月18日には桐間番が廃止されたことで寄合となり、享保11年(1726年)4月26日に致仕した。この際、家宣から和歌を賜ったという。同15年(1730年)11月23日に66歳で死去し、深川の浄心寺に葬られた[2]。
実子はなく、弟(『寛政重修諸家譜』では下村頼母介高峯の子とされる)の石川保和(中奥小姓、駿河守)が養子として跡を継いだ[3][4][5][6][7]。