石川隆次
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子孫
天文17年(1548年)、三河国幡豆郡(現:愛知県西尾市)で、石川又市の長男として生まれた。徳川家康に仕え、若年は家康の命により鳥居元忠のもとで働く。小田原の役にて功あり。後に松平家を去り、伊予松山城主となっていた加藤嘉明に招かれ仕える。文禄・慶長の役では、釜山にて嘉明とともに戦う。伊予松前では、1500石を賜る。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、伊予にて来島城の城代として、来島城に攻め寄せてきた毛利軍と戦う。毛利勢は9月10日に城の守りが堅固であったためこれを諦め、正木城(松前城)に矛先を向けた(三津浜夜襲)。戦後、その功により3500石の加増で計5000石となる。
慶長6年3月17日(1601年)、伊予松前城下にて病死する。
元和8年(1622年)、加藤嘉明が遺骸を伊予天徳寺に埋葬する。
隆次の死後、家督は嫡男の石川清隆が継いだ。加藤嘉明の甥にあたる。会津騒動により加藤家を離れ、清隆の妻(野中益継の二女)の縁をたどり土佐の山内家に仕官している。会津騒動後も加藤家には清隆の末子である石川新右衛門玄隆が仕え、代々加藤家の家臣として幕末まで仕え続けている。加藤家が水口藩主となった頃には、水口藩にて家老として仕えた子孫もいる。土佐の山内家に仕官した子孫は、代々山内家に仕え続け、幕末には大阪在番で活躍した石川石之助がいる。