石抹世昌
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石抹世昌はキタイ帝国(遼朝)の歴代皇后を輩出した審密=石抹氏(漢風には蕭氏)[1]の出であった。祖父の石抹海住はモンゴルの最初の金朝侵攻時にムカリに降り、戦功によって奉国上将軍・彰徳路総管兼行軍総帥府事とされたことで彰徳に移り住んだ[2]。
石抹海住の息子の石抹珪は征南千戸とされたが早世し、その息子の石抹世昌は僅か7歳で父を失った。石抹世昌は容姿端麗で子供のようには見えず、独力で学問を学んだという。9歳にしてアウルクを率い、13歳にして父の率いていた千戸(ミンガン)を受け継いだ。この時既に堂々とした体躯であり、13歳にして成人のようであったという。
1259年(己未)には南宋遠征のため長江を渡ったが、その翌年に皇帝モンケが急死し、中統と改元したクビライに仕えるようになった。1262年(中統3年)に叛乱を起こした李璮の討伐の際には、70日に渡って鎧を脱がず、宿州・蘄州を奪還する功績を挙げた。1269年(至元6年)には五河口を南宋から奪取する功績を挙げた。この際、石抹世昌は自ら敵船に乗り移って40人余りを討ち取る激戦を繰り広げ、流れ落ちた血が履き物を浸すほどであったという。しかし、この激戦で傷を負ってしまったためか、1260年(至元7年)1月17日に僅か25歳にして急死した[3]。