石抹乞児
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石抹乞児は石抹高奴の孫にあたる。1223年(癸未)、チンギス・カンが威寧に至ると、石抹高奴は西京(大同府)の有力者劉伯林・夾谷常哥らとともにモンゴルに降り、千戸・遙授青州防禦使の地位を授けられた。また、1229年(己丑)の金朝平定戦にも従軍して「征行千戸」となったが、間もなく亡くなった[1]。
石抹高奴の息子が石抹常山で、父の地位を継いで千人隊長となった石抹常山は1243年(癸丑)に総管の地位を継いだが、程なくして早世した。石抹常山の死後は息子の石抹乞児が跡を継ぎ、万戸諸翼軍馬を率いて都元帥ネウリンの重慶府・瀘州・叙州侵攻に従い功績を挙げた。また、クドゥが臨洮で叛乱を起こすと、石抹乞児がモンゴル・漢人連合部隊を率いてこれを討伐した。至元2年(1265年)、都元帥の按敦に従って潼川に移り、至元4年(1267年)9月には蓬渓寨を攻めたがそこで亡くなった[2][3]。