汪惟簡

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汪 惟簡(おう いかん、1262年 - 1302年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。鞏州塩川鎮の出身。

汪惟簡は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、帝位継承戦争・南宋領四川での戦闘で多くの功績を残した汪良臣の息子として生まれた[1]

汪惟簡の生涯については「漳県元明威将軍汪惟簡壙志」にて語られている[2]。「漳県元明威将軍汪惟簡壙志」によると、汪惟簡は1282年(至元19年)に鞏昌便宜都総帥府で仕官し、1289年(至元26年)には万戸に任命された[2]1293年(至元30年)にはチベット(西番)の賊討伐のために出征し、1296年(元貞2年)にも「鉄州西番賊」を討伐したと記される[2]

1299年(大徳3年)には明威将軍・保寧等処万戸府万戸に昇格となった[2]。なお、汪惟簡以前に保寧等処万戸の地位にあった人物として、石抹不老がいる[2]1302年(大徳6年)には雲南の宋隆済らの反乱を鎮圧するため、四川道宣慰使司都元帥の阿答赤らともに出征し、烏蒙・烏撒で叛乱に参加した酋長たちを捕らえて翌年に保寧に帰還した[2]

この後の汪惟簡は不明であるが、1302年(天暦2年)に四川の順慶路南充県の興教坊で亡くなったと伝えられる[2]

モンゴル帝国の四川駐屯軍

鞏昌汪氏

脚注

参考文献

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