石橋秀野
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明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる[1]。旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を[1]、高浜虚子に俳句を学ぶ[1]。大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚[1]、石橋姓となる。昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。しかし戦時中の疎開生活中に病に侵され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇多野療養所にて38歳で死去。
約10年間の作品と随筆12編他による句文集『桜濃く』(1949年)は、追悼の意を込め刊行され第1回茅舎賞(1954年=第3回から「現代俳句協会賞」に名称変更)を受賞する。無量寿院(福岡県八女市本町)の「石橋氏累代之墓」に眠っている[1]。
著書
作品
- 曼珠沙華消えてしまひし野面かな
- 西日照りいのち無惨にありにけり
- 短夜の看護り給ふも縁(えにし)かな
- 蝉時雨子は担送車に追ひつけず[2]
