蒸気機関車に石油を使う燃焼方法は古くからあり、1874年にトーマス・アーカートがいくつかの実験を行った後、蒸気機関車で石油を燃焼させることに成功した[ 5] 。1887年にペンシルバニア鉄道 でも同様のシステムが導入されたが、この時はあまり注目されていなかった。しかし、石油資源の豊富な州から関心が高まり、1895年にはユニオン石油(現在のユノカル )、サザンパシフィック鉄道 、サンタフェ鉄道 の3社による共同開発により、1910年までに多くの地域で石油は燃料として広く使用された[ 6] 。アメリカは1900年代初頭から石油燃焼を効果的に使用した国であった[ 7] 。
ヨーロッパでは、ルーマニア の発明家ジョルジュ・コスモヴィチが、「石油燃焼」と「石油と石炭を併用して燃焼」の双方に使えるバーナーの特許を取得している[ 8] 。1914年にドイツ語圏向けに出版された『Enzyklopädie des Eisenbahnwesens』第6巻に蒸気機関車用の石油を熱源とする装置の説明があり、「機関車における石油燃焼装置は専燃・併燃があり、前者は火格子などを省略でき、二次燃焼空気の供給に必要な開口部を除き煉瓦で覆うことが可能である、後者の併燃の場合は燃料油を白熱した固形燃料に霧状で散布して燃焼させる」という主旨で石油燃焼装置の説明が出てきており、さらにこの後こうした石油燃焼はオーストリア 、ルーマニア、ロシア などで使用されていると記述されている[ 9] 。
これとは別の方法で、石炭と石油を燃焼させる方法も用いられたが、石油に石炭の粉塵/粉砕燃料を混ぜたものをバーナーで噴射させるもので[ 10] 、日本国鉄が使っていたものとは仕組みや分類が異なっていた。
重油バーナーの位置は世界的にはバーナーの取り付け位置は「火室の喉板下部に後ろ向き」が主流だが、重油専燃式に限っても「火室焚口下部に前方向き」(日本の国鉄制式機は専燃・併燃に関わらずこれが主流)の他に、変則的なものでは「火室底箱から内火室天井向き」などが存在する[ 11] 。
日本の場合、重油燃焼装置の使用そのものは古く、1898年 - 1899年 (明治 31 - 32年)のころ重油の値段が安かったので機関車燃焼に使用し、蒸気発生の向上や黒煙減少が見られたので碓氷線 ・信越線 ・奥羽線 の一部の機関車に用いられた。しかしその後、重油高騰で不経済になったので取りやめられ、1910年 - 1911年 (明治43 - 44年)に中央線 の隧道区間で消煙目的で再度使用されたが、この時もすぐに値上げで取りやめになっている。
この頃の重油燃焼装置は開発者の名前から飯山式・横井式という名前で呼ばれていたが詳細ははっきりせず、「扁平の吹き出し口から重油を吹きだす構造」であったと考えられている[ 誰によって? ] 。その後、大正 初期に秋田県 の黒川油田 が噴出すると再度重油価格が下落したため、かなりの両数に重油燃焼装置を装着したが、再度の重油価格の高騰で外した。この時の燃焼装置は「山形の油タンクを炭水車上に据え付き、銅板製平らな吹出口を有するバーナーを焚口に向けて上記で油を吹き込む」というもので、使用しない時はこの吹出口を水平に回転していた。これらの燃焼方式はいずれも併燃である[ 12] 。
戦後、1951年 (昭和 26年)の秋に石炭が不足したため、石炭危機の対策と質の悪い石炭を有効に活用するため、機関車に対して重油を石炭と併用し、石炭の節約が実施された。当初は海外と同じく機関車用の重油燃焼装置や艦船用のバーナーを試験したが[ 13] 、噴射する容量や形状をアレンジした独自のバーナーが開発され、重油併燃装置の研究試験も進められた[ 14] 。
その後、石炭事情は好転したが、消煙効果と投炭量の減少により、乗客に対するサービスの向上と乗務員の苦痛の軽減から好評を博し、同時に引張定数または速度を10%向上することも可能であることが分かり、全国的に拡大実施された[ 15] 。この時の燃焼装置は「燃料タンクをボイラ胴上上記ドーム後に置き、タンク内に加熱管があって流動性を良くし、これを焚口の戸もしくは枠に開けられた穴につけられたバーナーから蒸気で送られる」というもので、前回と違い炭水車上に置かなかったのは重油を大量に使用しないのでタンクが小さくてよいことと、炭水車からではたわみホースが必要だが重油用のホースは耐油性でないといけないことやB重油を使用するため重油の自重による移動が困難の考えられたためである[ 16] [ 17] 。
日本国鉄では貨客車1,000t-㎞あたりの石炭消費量が1946年から1956年の間に67kgから39.1kgへ、消費量が42%減少した理由の1つに重油燃焼を挙げており、フランス の同じ条件、同じ十年間で77kgから54.3kgへ、27%の減少よりも優れた燃料消費量を記録している[ 18] 。
重油併燃にはB重油が使用されていたが安価なC重油の使用も考えられるようになった。昭和37年度にC重油用のバーナーが試作されると[ 19] 、C重油は安価であるものの、引火点や粘度が高く残留物も多いため、重油を使用しても単純に楽になるわけではなく、火力が増すのでボイラー周りが高温になって排煙ですら100度を超え、トンネルなどに入ると非常に熱くなるので上記の消煙効果や投炭軽減を差し引いても「無い方が楽(盛岡機関区 の機関士、内藤利雄 談)」と評価されたり、使い過ぎると燃え残った重油がべとつき、煙管が詰まったり集煙装置の開閉ができなくなる不具合が起きたため「私はあまり油は使わんのです」(人吉機関区 の機関士、石井篤信 談)といった使用控えもあった[ 20] 。
日本では専燃の物は少なくC59形 の改造機(127号機)があるが、これ以外に微妙なものに熱海鉄道 で「石油発動車」や「オイルエンジン」と呼ばれた輸入品の機関車を使用していた[ 21] ことがあり、この車両は最初コークスで着火し、発生蒸気の一部を乾燥させて重油噴出に使用するものであった[ 22] 。