石田堤
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1590年(天正18年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現:丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し[3]、そこを起点に忍城周囲に総延長28 km[注釈 1]、比高1.8-3.6 m、基底(幅)約11 mにも及ぶ堤を築いた[4]。
総延長28 kmに及ぶ堤を6月9日に着手され、わずか1週間(一説には5日間[4])で作り上げたと言われるが、実際には既存の自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる[5]。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れた。その後、増水に耐えられなかったため、現在の堀切橋付近(袋 - 堤根間)で堤が決壊して[5][4][注釈 2]、水攻めは失敗に終わった。その後は開墾などにより次第に取り壊されたが[4]、慶応2年(1866年)、名主の増田五左衛門らにより石田堤の保存活動が行われた[4]。
行田市堤根地区に残された282 mの区間が1959年(昭和34年)3月20日に埼玉県指定史跡に指定された[6][4]。また、鴻巣市袋地区に残された約300 mの区間が1993年(平成5年)5月17日に当時の吹上町指定史跡(現鴻巣市指定史跡)に指定された[7][8]。