石田武太郎
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大阪府南河内郡富田林町(現在の富田林市)出身[2]。石田家の分家に生まれた[2]。1915年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業し[1]、中外商業新報(現・日本経済新聞)に入社した[2]。政治部の記者として働き、まもなく電話交換手の女性と結婚した[2]。
31歳の時、ワシントン会議の特派員に抜擢され[2]、会議の後もアメリカ合衆国に残り2年間の特派員生活を送った[2]。その後日本に戻り、中外商業新報の政治部長となり、さらに編集局長まで昇進した[2]。
42歳の頃に新聞記者を辞め、出身地の大阪から衆議院議員選挙に立候補した[2]。犬養毅が総裁を務めていた与党・立憲政友会(当時)に所属していたが[2]、落選に終わり[2]、このことで財産のほとんどを失った[2]。さらにその2年後、肝硬変を発症して44歳で死去した[2]。