石田為久 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代末期生誕 不詳死没 不詳別名 次郎(通称)、為重 凡例石田為久 木曾最期(田村佳丈氏作油絵。義仲館[1]所蔵(館内撮影可))。画面中央の馬上、弓を構える人物が石田為久。時代 平安時代末期生誕 不詳死没 不詳別名 次郎(通称)、為重官位 判官幕府 鎌倉幕府主君 源頼朝氏族 桓武平氏良文流、三浦氏流蘆名氏支流相模石田氏父母 父:蘆名為景(円海)兄弟 清高、石田為久妻 不詳子 為家特記事項 石田三成の遠祖とする伝承あり。テンプレートを表示 石田 為久(いしだ ためひさ)は、平安時代末期の武将。三浦義明の従孫、蘆名為清の孫(『三浦系図』)。 相模国大住郡糟屋庄石田郷(現在の神奈川県伊勢原市石田[2])の住人となり、相模石田氏の祖となる。 治承・寿永の乱において鎌倉方として、源範頼・源義経兄弟による木曾義仲討伐軍に従軍した。 寿永3年(1184年)正月21日、義仲が粟津の戦いで敗北し、北国へ落ち延びる道中、馬が粟津の松原で深田にはまり込んで動けなくなったところを、矢を放って義仲の兜の内側を射抜いた。義仲が倒れたところを為久の郎党2人が駆けつけ、その首を取った(『平家物語』木曾最期、『吾妻鏡』(元暦元年正月20日条))[3]。 為久はその功績で、源頼朝より伊豆国3千町、あるいは近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)の所領を与えられたという。安土桃山時代の石田三成はその後裔と称している。 江戸後期の木邨梅年(木村忠貞)の著作『鎌倉武監』に拠れば、石田三成が使用したことで著名な旗指物の紋「大一大万大吉」は、元々は石田為久が使用していたとされる。 画像集 圓光院(伊勢原市)(神奈川県伊勢原市石田928) 石田為久・為景之墓(伊勢原市)(圓光院墓所、本堂奥山側) 木曾最期(義仲館)(田村佳丈氏作油絵、館内撮影可) 脚注 ↑ 長野県木曽郡木曽町 ↑ 愛甲石田駅周辺 ↑ 『愚管抄』では義仲を討ち取ったのは伊勢義盛としている。 Related Articles