愚管抄
日本の史論書
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著者
概略
構成
『愚管抄』の内容は性格の異なる三部分から成り立っており、巻1から巻2までは神武以来の天皇年代記、巻3から巻6までは道理の推移を中心とする歴史叙述、そして巻7は道理についての総括となっている。鈴木正道によると当初巻3から書き始められ、最後に天皇年代記が書き継がれたとする。巻7に至り、一切の法は道理であり、其の道理に基づいて世の直し方の方法を論述している。
主な参考史料
想定読者
代表的な写本
児島の論文[5]も参照。
- 文明本 宮内庁書陵部蔵 巻2が欠巻
- 文明8年(1476)書写の奥書あり。主に漢字片仮名文だが一部ひらがなあり。筆写時期は江戸初期か。
- 印刷刊本として新訂増補国史大系(昭和5)、岩波文庫(昭和24)
- 天明本 国文学研究資料館本など多種 全7巻の完本
- 文明8年の奥書のあとに天明8年(1788)の奥書あり。巻2が補巻されているなど、文明本以外に何を参照したかは不明。漢字ひらがな文。
- 刊本として『史籍収覧』(明治15)、中島悦次『愚管抄評釈』(昭和6)[注 4]
- 島原本 長崎県島原市公民館所蔵 全7巻の完本
- 阿波本 東京大学文学部国語研究室蔵 巻1,3のみ
- 巻1は桓武天皇まで。巻1には正和2年(1313)の、巻3には貞治6年(1367)の奥書あり。漢字片仮名文。文明本より古形をとどめている可能性がある。書写時期は江戸前期。
- 巻3のみ岩波書店の日本古典文学大系[2]に併収。
版本
愚管抄独自の記載の例
保元の乱以後には、証言者の名もあげた独自記事が多く[7] [注 5] 、史料的価値がある。 頼朝死後の鎌倉の動静、頼家の最期、実朝暗殺、承久の乱前夜など、『吾妻鏡』にもない記事がある。
源頼家の最期
サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日ニ、修禅寺ニテ又頼家入道ヲバサシコロシテケリ。トミニヱトリツメザリケレバ、頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞コエキ。
そしてまたつぎの年、元久元年七月十八日、修禅寺において頼家入道を刺し殺したのであった。急に攻めつけることができなかったので、首に紐をつけ、ふぐり(注:陰嚢)をとったりして殺したと伝えられた。 (大隅和雄 現代語訳)
『吾妻鏡』には伊豆からの飛脚の伝聞として「左金吾禅門(頼家)於当国修禅寺薨給之由」としか書かれていない。
参考文献
- 石田一良 『愚管抄の研究 その成立と思想』(ぺりかん社、2000年) ISBN 4-8315-0899-3
- 尾崎勇 『愚管抄の創成と方法』(汲古書院、2004年) ISBN 4-7629-3523-9
- 深沢徹 『『愚管抄』の〈ウソ〉と〈マコト〉 歴史語りの自己言及性を超え出て』(森話社、2006年) ISBN 4-916087-69-0